堕落についての迷想

ご容赦ください;この文章には一部不快な表現や話題を含みます


大学4年生をどう過ごすか、というのを、3年前の自分は想像できなかった。1年生のころに抱いていた感情、交友にも性にも、慎ましいこと清らかなことが正しいとする価値観が、ひっくり返されたこと。人間関係を広げていくなかで、今まで接してこなかったような人たち。貞操やら愛やらに対しておおらかな人種。大学生らしいといえばそうだが、当時は自分の世界にその価値観が入ってくることが苦しくて、この人はそういう考え方なんだと決めつけて距離をとった。ひとつダメなら全部ダメというふうに。見倣うべきものは多いかもしれないのに。

多少の耐性はついたものの、4年になってもその大らかな価値観を心の底では納得できていない。みんなさも当然のようにその考え方を有していて、その上に生活や感性をひとつふたつと乗せていく。その皿はどこから来たんだろうか。酒が入れば、ピンクな話にも花が咲く。ひとり語れば、隣もぽつぽつ語りだす。その神妙な空気を、静かな興奮が支配していく。これを不快だとかおぞましいとか思っていたのに、やはり慣れというのは恐ろしいもので、今や語る側になってしまった。ああ所詮人の子だったと落胆した。少ないネタを語る口から反吐が出た。こうして僕の感性は消費されて、いま言葉は記憶を上書きしていく。そんな感覚があった。

堕落論を読んだか。純潔とやらに価値を見出そうとすることは、実際は無意味なんだろう。価値を感じるからこそ、依存してしまって、盲目になるのかもしれない。いや、あれには救われた。坂口は作品のなかで、人間は不自由だ、堕落に自由を望むのだ、それは人間らしい行いなのだ、と説いた。純潔やら武士道やら正義やら道徳やらという不自由によって造られた仮面に、ありのままの自分を追従させることで、人は気高く生きる。自分にはその気があった。しかしそれは真綿のように自分の首を絞めていき、いつしか爆発してしまうのだろう。そういう意味では、僕の周囲の彼ら彼女らは、他者と堕落を分かち合う真実の人間だと言えよう。

とはいえ、その方向への堕落ばかりを肯定すると、きっと戻れなくなってしまいそうな予感がする。これまでの生涯で得た社会道徳に逆らうもの、僕自身よりも大きく肥えて、自意識を押しつぶしてしまう欲望。それが堕落へ突き動かすなら、だいぶ危ないところだが、僕はまだおそらく矜持を手放しきってはいまい。そして、矜持に逆らって生きていけるほど、まだ堕落が魅力的には見えない。堕落するにしても、少なくとも自省を重ねて弁えたい。そんな崖っぷちである。

たまに、彼ら彼女らの堕落を見ていると、いつか誰かと同じ墓に入りたいと思ったときに、自分の今までに自分自身が苦しむことはないんだろうか、と疑問に思う。確立してしまった生活様式、人間の運営が、結婚によって縛られることを、あなたがたは良しとするのか。覚悟というが、そんな覚悟があるのか。もしや、結婚に対して僕は幻想を抱いているのか。戸籍上結ばれただけであって、浮気や不倫は当然の権利なんだろうか。それとも、交際段階では核兵器のようにお互い権利として所持していて、結婚という軍縮が協議されると権利の実行が明確な国際法違反となり開戦に至るのだろうか。

答えはきっとその時にならないとわからない。なにせ現時点では相手が見つかる見込みがあまりない。経験が少なくこういう問題に対する悟りを得ていないし、そもそも尊敬できる人でなければ好意を持ちにくい。それに矜持を保ったつもりの人間がいつ堕落するかもわからないという根本的な問題もある。だからこそ、生きていくなかで、その時その時の廻り逢わせや、永らく関わる人とのタイミングなど、そういった機会に備えて自分自身を用意することは尊ぶべきものと思う。用意していく過程、ベストでなくとも自分をより良く変えていこうという気持ちがアイデンティティを形成する原動力となるだろう。短絡的に結論するなら“チャンスを逃すなできることをやれ”だが、これは何か行動を起こさなければ、という焦りにも映る。

そうだ、巧みに堕落せねば。つまり、自分を生かすために堕落しようというのだ。堕落とは赦しである。倫理道徳によって自分が苦しいと感じている状態から解脱できれば、それでよい。規律から堕落することによって、価値観に含まれる認知のゆがみを知りうる。せめて苦しくない方向へ、自分を赦していこう。誰も不幸にならない限りは、素直に今日生きていることを有難く思って、山に行きたかったら行けばいいし、食べたかったらお腹いっぱい食べればいいし、人に会いたかったら都合がつけば今すぐにでも会えばいい。そこにためらいはいらない。




注)筆者はいたって元気です。

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