変化のおそいもの

 私は探検に身を添わしたい。

 人類史で絶えず繰り返されてきたそれが、
時間と自意識を繋ぎとめるのだ。

 自粛が叫ばれて一年。巣ごもりもとうに日常となり、世の中がオンライン化した。ネットの海のなかで、以前に増して、物質的な豊かさに囚われる。毎日、部屋に籠りながらも得ていた情報の何もかもが無価値に思えて、心のうちが何処までも空虚に感じた。

 自分にとって、「探検」はこの一年で何度も考えさせられた現象である。自分の求める探検とは何なのか、そもそも探検することに意味があるのか。

 辞書によると、「危険を冒して未知の地域に入り、実地に調べること」とあるが、必ずしもそうではないと、新型コロナウイルスの流行によって大きく覆された日常のなか、感じていた。
 
 探検には移動を伴うことが多い。有史以来、人類の繁栄は移動と共にあった。生活のためによりよい条件を選ぶ者、好奇心を燃やして新天地を探す者。しかし、20世紀後半からコロナ禍直前までを見渡すと、娯楽としての移動、観光が大衆化され、非日常はもはや日常に組み込まれたように思う。

 あらゆる体験が商品化され、非日常が記号として売られる。通勤電車に掲げられた、小粋な表現や洒落た風景写真の広告に、「旅」をしろと急かさせている。

 では、探検は旅だろうか。探検と旅に共通するのは、日常の異化であり、異なるのは、求められる非日常の深さだと思う。

 旅の異化はあくまでも「異なる誰かにとっての日常」の範囲にきっかけをもつが、探検の場合は「誰にとっても日常ではない」範囲で活動することで日常の輪郭を照らす。したがって、旅と探検は、どちらかがもう片方を包含するような関係ではなく、隣接しながらも互いに独立した概念であると考える。

 探検するとき、生きていく人類社会をその外側から眺めるとき、寂しさを覚える。未知へと関心が注がれる一方で、立ち止まり振り返って、既知な範囲を眺める。

 すると、既知であるはずのものと、未知な風景が同じもののように見えることがある。

 その瞬間に、自分の存在が世界の中で際立って見える。この感覚は、人類史のなかで何度繰り返されたのか。

 探検を、変化が遅いものに挙げるのは、人間が、自分が生きてきた以上の歴史を振り返る動物であることに起因する。積み重ねられてきたらしい日常と、積み重ねていく現在と、積み重ねるだろう未知のものとを結ぶのは、己が在るという感覚であると思う。

 類人猿の頃から、コロンブスの大航海、そして今歩いている自分に至るまで、人類は絶えず移動と探検を続けてきたのだ。

 自分が探検する意味の模索は、自動化された日常を再発見し、自分の存在の再確認へと導くものと考える。

 停滞した日常を打ち破り、記号化された社会から逃れ、長い歴史の中に在ることを確かめるために
 
 

 私はこれからも探検に身を添わしたい。

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