親子の手帖、対談を聴きに行く。
今、わたしは、自分自身が不安定な状態にあり、それがこどもに伝わることを恐れている。
自分1人でやろうとせず、頼れるもの全て使って、やらないでいいことはやらないで、自分の機嫌を中くらいにすることを実践している。
この本は、脈々と続く、日本の親子の関係をある時代で切り取った物語だ。
迷いうろたえ捉えどころのない不安を抱え、話す人が周りにいない人全てに届いて欲しい。
できれば、そう、なる前に、届いて欲しい。
冷静な視点をどこかもっていられるうちに。
昨日、メリーゴーランド京都店で行われた鳥羽和久さんと鈴木潤さんの対談がある、と、店の方に教えてもらい、どうしても行きたくなった。
そこで鳥羽さんが喋っている姿をみて、あぁ、来ることを選択して、本当に良かった、と思った。
あぁ、こんな先生に、こどものときに出会いたかった。
本を読んでいる間、話を聞く間。
わたしはこどもの自分に戻っていた。
(と同時に親である自分とも行きつ戻りつだった。)
不安で不安で仕方がなくて、学校が怖かったこと。
すべての勉強ができないと、人間失格のように感じていたこと。
勉強は特に算数、数学や物理など理系科目が苦手で、強い劣等感を感じたこと。
親からかけられたことば、姿、表情。
ひとりでぐるぐる考え続けたこと。
頼れる大人を見つけられなかったこと。
でも、本だけは、自分を豊かにしてくれたこと。
そして今。
目の前にいるこどもたちに、“自分が嫌だったと感じていた同じようなこと“ をする時があること。
子育てを自分1人でなんとかしなければならないと思い込んでいたこと。
対談で、いろんな言葉が自分に届いて行く中で、時間はかかったけど、今ようやくわかったことがあり、また、そのわかったことも儚いものだということが残った。
白黒つける、どっち側ということもなく、あらゆる矛盾がある中で、どのような嗅覚を持って臨むのか。
自分の感覚が拡張され、生きているという実感が湧く日々が今目の前にある。
さあ、今日も。