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待てないことが多い母のキモチ

ある日のお風呂場で。

「はっぴー じゃむじゃむじゃむじゃむ さいこー おーどろーよー♪」
と、しまじろうの歌を歌いながら(正式な歌詞にじゃむを2つ足して)、湯船になかなか入らないはだかんぼうの娘。

湯船に浸かりながら待つ私は、あついので、早く入ってきてほしい。

娘は歌ったり踊ったり、湯船の中に手を入れて温度を確かめたりしながらも、なかなか入ってこない。

なんど誘ってもなかなか入らずだったけれど、彼女のタイミングで入ることを決めた時がしばらくしてからあった。

んー、待つって難しいが、待ってみると、なんだか彼女なりの決意のタイミングのような時がある感じがして面白い。


とはいえ、なかなかそこまで待てないことも多く、今回だって何度も抱っこして湯船に浸からせようとしてのエピソード。
湯船に入れさせずお風呂を出るという選択だってもちろんあるけど、私は浸かってほしかったのよね。



待つことの大事さは、今までこどもと関わる仕事をしてきた中で分かっていたつもりだった。
が、待つことの難しさは娘が生まれてきてくれてからのほうが痛感できているように思う。

親という新たな目線が加わることで、今までに感じたことのない感情が生まれているというのも要因のひとつなんだろうけど、思った以上に待てない自分に沢山の場面で遭遇しショックを受けたりもしている。


なぜ、待ちたいと考えているのかしら。


相手にゆだねまかせることのできる、私自身の心の余白が欲しいんだ。


目には見えないコチラ側のキモチを、相手に伝えられる(かもしれない)行為が待つということなのでは。と思っている。

「私はあなたの選択を尊重したいよ。」の気持ちを、待つという行為に込めたい。


待てない自分に「あー、まただぁ。」となりつつも、そんな自分も、自分である。

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