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聖道仏教を捨てて浄土仏教に入れとは

親鸞聖人や法然上人は聖道仏教を捨てて浄土仏教に入れと言われています。そこでここで聖道仏教とは何か?浄土仏教とは何か?となります。

多くの人は聖道仏教は捨てなければならないから、求道する必要はないのだと思っています。

しかし、因果の道理を信じて廃悪修善をするのが仏教の教え、だから、求道はしなくていいと思ってしまったら、それは仏教ではありません。

でも、それでは聖道仏教は捨てよという教えに反してしまう。

では、この聖道仏教を捨てよという御心はどういうことなのでしょうか?

私は聖道仏教を捨てよとは、善をするな、求道の必要はないということではなく、善人にならなければ助からないのだという心を捨てよということだと思います。

そもそも善をするのは、それによって助かる為ではなくて、幸せになる為に善をします。

ところが、私たちは自分の根底に悪人になったら見捨てられるという不安がある為に、見捨てられない為に善をしてしまうのです。

これを例えるならば、大学受験でいったならば、勉強するのは大学に合格する為です。でも、テストで悪い点数を取ったら、自分はダメじゃないかと不安になるのは、このままでは大学に合格できないと思うからではありません。
多くの場合、テストで悪い点数を取ることで、自分は頭が良いんだ、と思って自分に価値を置き、だから、みんなからも声をかけられるし、認められるのだと思っているのです。だから、テストで悪い点数を取ることで、あの人、頭良いと思っていたけど、頭悪いんだね、もう相手にするのを止めようと見捨てられるのが不安なのです。

だから、大学に合格する為にやる筈の勉強が、みんなから見捨てられない為に、頭の良い人間だという価値のある所に立つ為に勉強をしているのです。

これと同じように私たちも本来善をするのは、善をして幸せになる為なのに、善をすることで善人に立つ為に善をしてしまうのです。

しかし、阿弥陀仏はどんなに善ができないものでも、見捨てない、悪人でも救うと誓われています。

だから、見捨てられない為に善人にならなければならない。その為に善をするのは、阿弥陀仏のどんな人も救うという阿弥陀仏の御心を疑っているので、善人になる為に善をする心を聖道仏教と言われ、捨てよと言われているのです。

だから、聖道仏教を捨てよというのは、善をするなとか、する必要はないということではなく、善人にならなければ助からないのだという心を捨てよと言われていると思います。

だから、善を助かる為にするのが間違いなのです。

だから、どうしても私たちは善人に立って安心しようとする心がありますが、それが阿弥陀仏の本願を疑う心なのだと思って、たとえ悪人でも見捨てられないのだと阿弥陀仏を信じることが大切なことなのです。

その上で善ができるかどうかで、助かるかどうかが決まると思う心は間違いだと思って、純粋に幸せになる為に善をすることが大事なことなのです。

往生の一段に置いては善ができるかどうかは関係ない。だから、善をして助かろうとする心は間違いだと信じつつ、幸せになる為に善をしてゆくことが仏教を求める人として大切ではないかと思いました。

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