
【長野県小川町】小川神社/戸隠神社信仰遺跡
白馬から長野市へ向かう道で小川神社の看板が目に付きました。
しかも『戸隠神社信仰遺跡』の文字が。
よく通る道ですが、今まで気付かずにいたので、帰り道に寄ってみました。
正式には「延喜式内(えんぎしきない)小川神社」と言います。
HPには
『平安時代以前より小川地方に存在した有力な神社であったと推測される。
※「延喜式」とは平安中期延喜5年(905)から延長5年(927)にかけて藤原時平、忠平によって編纂された格式(律令施行細則)』
とあり、かなり歴史ある神社のようです。
しかもこの前伺った御射山(みさやま)神社本殿が左隣りにありました。
昭和に合祀されたそうです。
参拝して、看板にあった戸隠神社信仰遺跡へ向かいました。
小川村観光協会のHPには
『上杉謙信・武田信玄の川中島合戦の際に、戸隠三院の人々は武田方に味方して上杉謙信に追われ、かつて神社の荘園であった小川村の筏ヶ峰(いかだがみね)に移り、ここに宝光院、中院奥院を建て法灯を守りつつ故郷へ戻れる日を待ちました。しかしながら頼みの武田家は滅亡してしまい、関ヶ原合戦の敗北で上杉影勝が米沢へ移されるまで、30年もこの地で過ごしたのでした。現在、三院跡にはひっそりと小社が祀られています。』
とありました。
戸隠神社が以前こちらに移されていたなんて、初めて知りました。
あまり知られてはいませんが、30年もこちらで過ごされていたなんて驚きました。
戦乱の世は、神社にも影響を与えていたんですね。
神社からの矢印を頼りに向かうと、先に奥社が現れました。


参拝後、さらに車で進むと中院(中社)と縄文遺跡の筏(いかだ)遺跡の看板が現れました。
見るからに悪路で、徒歩で向かいました。

中院への看板が分かりづらく、けっこう歩いた所に筏(いかだ)遺跡が姿を現しました。


こちらも縄文時代のかなり歴史ある遺跡のようです。
来た道を戻り看板まで来ました。

真っ直ぐ行くと筏遺跡なのですが、左側にも細い道があり、進んでみました。

熊が心配で、不安でいっぱいの中、奥に進んでいくと中院が現れました。

あって良かった。
参拝後、車に戻り先に進んでみると迷ってしまいました。
宝光社を目指しましたが、看板が見当たらなくなりました。
諦めて小川神社に戻ろうとナビに入力。
ナビ通りに進んでいくと、途中で宝光社の看板がありました。
こちらも悪路で、大丈夫かなと思いながら車で進みました。
不安になっていると突然鳥居が現れました。

ホッと胸を撫で下ろし、参拝しました。


紅葉と西陽がとても美しかったです。
怖い中、悪路を進んだご褒美のようでした。
そして帰路に着きました。
私が発見出来なかっただけかもしれませんが、どうやら火之御子社はないようでした。
小川神社に戻り、一安心しました。
道中の高低差や峠道などが、戸隠神社一帯の地形と似ている印象でした。
古い歴史に触れることができ、とても楽しかったです。