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嘘を愛する気持ち

大昔のこと。

思春期の一時期、誰もがそうなるように(尾崎もやたら「真実」と言う)僕も「真実」にだけ迫りたいと思っていたことがある。世の中のいろいろなことが全て嘘だらけに思えて、汚らしく感じた。

そういう世界の表面を全部ひっぺがえして、その裏にある本当の世界を見たくてしかたがなかった。見えているくだらないだれた世界が唯一無二の真実であるなどとは思いたくなかった。

オカルトや新興宗教を頭から信じるほどナイーヴにはなりきれなかったが、心は信じたがっていた。心理学を専攻する自分の周りにいる人々がカルト教団にあっけなく吸い込まれていくのを(信じられないことに)うらやましく思ったりもした。本当に。

一方、同じ真実を求める群れでも、科学こそが真実を追究できるアプローチなのだ、と素朴に言い切る輩は軽蔑していた。彼らは世界を切り分け、要素に還元し、骨組みだけにして説明することを「本質」と称していた。「所詮」という言葉をよく使う人々だ。

しかし、小説のあらすじが、その「本質」なわけがないし、性格をパターン化することが、一回限りの人生を生きるその人の主観的世界の「本質」を理解することにはなりはしない。

科学法則に従って、何度も「同じ」ことが起こるように見えるのは、それらの現象から「意味」を換骨奪胎して、抜け殻だけにしてしまったからだ。彼らは一生「真実」になんてたどりつけまいと思った。

しかし、それから相当の時間が経ち、気がつくと、そういう「裏にある真実」なんてものはどうでもよくなっていた。正確に言えば、どうでもよくはないのだが、忘れて日々を暮らせるほどには忙しい身になったのかもしれない。

結局、僕があの頃求めていた「真実」とは一体なんだったんだろうか。

まず言えるのは、今思う「真実」と大昔の「真実」はだいぶ違うということだ。

ある程度大人になった今の自分は「真実」というのは、意味もなく、中立的で味気なく、合理的で単純で、深みもない見たままの世界であると思っている。解釈されることを拒んでそのままで存在し続ける合理的なカオスが「真実」である。

人生に隠された「意味」なんてない。探しても無駄だ。そういう大人風「真実」は、耐性のない人にとって辛いコンセプトであり、直視してしまうと、下手すれば「虚無主義」「ニヒリズム」に逃げる可能性がある。

しかし、大人はそういう無味乾燥な「真実」の世界にある物事に、自分の中にある調味料をふりかけて、勝手に自分の世界にある「虚構の」ストーリーの部品として組み込んでいく。

無意味だからこそ素材としては使いやすい。白いものは何色を塗ることもできる。自分だけの「虚構」の世界を「真実」の部品を使いながら作り上げる。

そうしてできた虚構の(=嘘の)構築物(=ストーリー、特に自己に関する物語)は、この無意味な真実の世界の中で、虚無的にならずに生きていくための拠り所として、大切に心の中にしまわれて、たまに取り出して愛でることになる。

実は・・・大昔に求めていた「真実」の成れの果てが、この大人の我々が心の中に持つ自分の人生に言い訳をし安心するための「嘘の塊」なのではないかと思う。

見たくないから心の奥の方に抑圧されているのか、そのプロセスは思い出せない。

しかし、推測するに、どこかにきれいな意味を持つ「真実」を追い求めた自分は、なにかの拍子に「そんなものはない」「人生に意味はない」と気づいてしまったのだろう。

そりゃそうだ。いつかは気づく。人生に意味なんて本当にないのだから。

ないことが分かれば、自分で作るしかない。しかし、自分で作ったものは人工的なものであり、大昔の自分の定義では「嘘」「虚構」の類にいれられるものとなる。

しかし、人生に明確な意味を「向こうから」与えてくれる「真実」がない以上、欠けた部分を埋めるものがあれば、代替物でも何でも受け入れるしかないし、そもそもそれが求めていたものの正体であるとも言える。

昔の自分は今の自分を見て、「嘘」に支えられて生きている、卑怯で勇気のないやつと誹謗するのかもしれない。

でも、今の自分は昔の自分に、「存在しないものを探すのは早くやめて、お前こそ本当の真実に向き合って、そこに暗い深淵しかないことを認めろ。他に頼るのでなく、自家発電して生きていく覚悟を決めろ」と言ってやりたい。

・・・

ややこしい話になりました(汗)。

世の中には、ありもしない理想の真実を「どこかにある」と強弁して、ありのままの曖昧で「汚い」世界を批判する人がいる一方で、世界のそういう在り様を潔く認め、「嘘」と知りながらも「嘘の」理想をこっそり大事に抱えている人がいる。

「嘘」が糧になり、虚無の世界を元気に生きていけ、さらにその「嘘」の方に現実世界を合わせていく努力までできるのであれば、「嘘」はとても大事な資源だ。

「自分は役に立っているかどうか」みたいな形而下のことに関する「嘘」の物語は、すぐ客観的に明らかになってしまうことだし、第一役に立ってないのに立っていると思うのは他人に迷惑だから持つべきではない。ここは真実を見据えるべきところ。

しかし、「自分は愛されているかどうか」みたいな形而上のことに関する「嘘」の物語は、そもそも見えないものなのだし、明らかにせずにそのまま甘い「嘘」に浸れるなら浸っている方がいい。それを真実を知りたいと頑張って、愛など無いことを知ってどうすると言うのか。

などと、汚れっちまった大人は、さわやかな朝に思うのです。

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