
「恩返し」よりも「恩送り」
年を取るに従って、「利己的」であることの意味が変わってきたような気がする。
人間は基本的に自己の利益や快楽のためにしか動かないものであるから、全員「利己的」であると僕は思うのだが、その利する「自己」というものの質に変化が出てきた気がする。
例えば、おいしい料理を食べる時、自分がおいしいかどうかということよりも、一緒に食べる人がおいしいと思い、喜んでくれるかどうかばかり気になる。自分がまさに味わっている感覚には注意がいかないことさえある。
ディズニーランドとか旅行などに行ってもそう。極端に言えば、自分はディズニーランド自体なんて全然楽しんでいない。連れて行った人が楽しんでいるか、楽しんでいれば僕も楽しい。カラオケに行く時も、できればリクエストされた歌を歌いたい。聴く人の何らかの感情が満たされればうれしい。
そんなおじいさんが孫に抱く感情みたいなものに囚われている。「メシたくさんくえよ」みたいな。
これは老化なんだろうか・・・。
ある意味では僕はとてつもなく欲の強い人間だと思うのだが、その欲が狭義の「自分」の欲を満たすということよりも、徐々に自分が好きな人たちが喜ぶことに移っていっている。先日もある人と話していて、どれだけお金があれば十分かという判断基準の話になり、議論した結果、「後輩や部下や友人に気兼ねなく何でも食事などをおごってあげられるぐらいあれば十分だ」みたいな結論になった(それってかなり稼がないとだめですが・・・)。
好きな人たちというのは、自分と同一視している人たちのことと言ってもよい。自分と共通するものを持っていたり、共通の経験をしていたり、共通する価値感を持っていたり。同一視の発生する理由は様々だが、その人の人生の喜びが我が事のように思えたりするような人たちである。
個としての自分は有限な肉体が滅んでしまえばそれで終わりだが、自分が同一視する対象が多ければ多いほど、広ければ広いほど、その同一視する人々が生き続ける限り、自分も生き続けるイメージを持つことができる。
肉体の衰えや、年齢の意識や、知人の死など、自分の人生が有限であることをよくわかってくると、こんな風に意識的にはコントロールできないはずの「欲」の形まで変わってくるのは面白い。人間の心は、うまくセーフティネットができあがってる。
もし、いつまでたっても自分自分で、個としての自分の欲だけにしか目にいかないままであれば、その先にあるのは絶望のみ。地位も名誉もお金もあの世へは持って行けない。自分というものの末路は無意味な死だけだから。
こういうプログラミングが人間の心にされているから、(自分を含め)利己的な人間ばかりの世の中だが、みんなが助け合ったり、後進を育てようとしたりして、なんとか社会が成り立っているのだろう。
と、思って、神の手の差配があることに安心して、自分の欲求に素直に動こうと改めて思うのでした・・・