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ロマンティックな狂気など、ない

以前、「愛の言葉はすべて自己中心的だ」ということを書いた。

僕らは自分の快楽を追い求めてしまう存在なのだから、愛もまた自己中心的であるのは当たり前であると。

ただ、年をとってもう一つ思うのは、「だから愛なんて偽善なんだ。だめなんだ」と思っていたのが、最近では「それでも別にいいじゃないか」と思うようになったことだ。

そもそも人間というものは純粋ではなく汚いものであるということに傷つかなくなった。また、動機が利己的であろうとなかろうと、そんなことは関係がなく、結局大人はどんな行動をして、どういう価値を世の中に提供するかが重要だということが腹に落ちた。だからかもしれない。


自己中心的と言えば、一部に「究極のストーカー本」と言われるゲーテの「若きウェルテルの悩み」という小説がある。僕にとっては大好きで、青春の書とも言えるのでやや賛成しかねるのだが、考えてみれば、人の女を勝手に好きになって、勝手にいろいろ思い込んで、裏切られたと絶望して、自殺して・・・大迷惑な男の物語である。

こんな狂った男の狂った行動の物語が、なぜ大ベストセラーたりえたのか。そもそもゲーテ自身の実際の恋愛体験に基づく小説であるらしいし、多くの読者も共感するところが多分にあったのだろう。それは何だろうか。


それは、「自分が狂っていることに気づいてる自分の苦しさ」ということではないかと思う。


バルトも「恋する私は狂っている。でも、そう言える私は狂っていない。私は私のイメージを二分しているのだ」(うろ覚え)と恋に苦しむ人間の分裂する自己の苦しみを語っている。

完全に狂って別世界に行ってしまうのではなく、理性的な自分をたくさん残したまま、自分の一部が狂っていくことは恐怖だ。おかしなやつをたどっていくと、実はそれは自分につながっている・・・。あるいは、異常な人間だと思って眺めているとそれは鏡に映った自分・・・。どう表現してもよいが、やはり怖い。

自分を自分でコントロールできないだけならまだしも、意識できている自分以外の自分が、別の意図しかも正常でない意図を持って自分を突き動かそうとしている。他人であれば、それを何らかの方法で退治してしまうこともできるかもしれないが、異常行動を取っているのはまぎれもなく自分なのだから、それを止めようとすることは自殺行為をするようなものになる。

狼男やゾンビなど、善良な人間が何らかの理由で悪いものに変身する話には、自分の中にある異常性に悩み、最後は自分を犠牲にして、他者に危害を加えないようにするという葛藤のストーリーがよくあるが、これなども同じことを言っているような気がする。自分の中にある相反する意図というのは苦しいものだ・・・。


では、完全に理性を失って、現実認識ができなくなり、完全に妄想の世界に行ってしまえば、楽になれるのだろうか。いや、それはそれでまた地獄の苦しみではないだろうか。


いくら精神が狂ってしまったとしても、僕ら(の肉体)は相変わらずこの現実世界にある。認識する側の枠組みがおかしなものになってしまったとしても、現実世界に生き、行動すれば、現実世界の側から現実世界の法則にのっとって反応を受けることになる。すると、間違った認識からした行動は、自分にとって意外な結果反応を生む。今度は、それに苦しむのだ。

そのひとつの例が冒頭にあげた昔書いたもの。自分が思っている恋愛妄想と、現実世界で生じている本当のことは全く違う場合がある。しかし、狂った恋愛主体はそのギャップに気付くことが無く、自分の「まごころ」が何故現実世界に通用しないのかを嘆き、恨み、苦しむことになる。

自責に耐えかねれば、他人を責めることしかなくなることもあり、そうなれば、さらに現実世界との溝は深まるばかりで、孤独感さえ生じてくることになる。しかもその孤独感は具体的な誰かからくるものではなく、もっと根本的な世界全体からの孤立感である。

このように、体が現実世界にある以上、精神が別世界に行ったとしても、現実世界の真実の法則から逃れて、楽になるなんてことはできないのだ。


以上のように考えると、甘い幻想に浸ったまま眠ったようにいられるような、昔からたまに想定される「ロマンティックな狂気」などというものは存在しないように思う。

僕らにできることは、包まれていたくなるような魅力的な妄想を勇気を振り絞って捨てて、冷徹な現実を嫌でも見据えて日々を生きていくことだけ。

現実をきちんと認識することによってしか、その先の成功や幸せはないのだろう・・・。

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