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ただの通りすがり

誰にでも涙のツボがあると思う。

映画でも小説でも、こういうシチュエーションは弱い、という。僕にとってそれは「自己犠牲」というキーワードになる。

好きな言葉「いまをいきる」は、もちろんロビン・ウィリアムズのあの映画「いまを生きる」から。ぜひ観ていただきたいので詳細は書かないが、この映画のラストには自己犠牲の精神を感じて、毎度泣けて仕方ない。

自分の信じる物事や人に、損害を被るリスクを顧みずに自分の存在を賭ける、投げ出す。むしろ、危険に身を投げ出すこと自体が自分の信念や思いの証明であるかのように。

そういう時、なぜか涙が出てくる。

人生は有限である。生者必滅、会者常離、どんなに瑞々しい命も必ずいつかは尽きる。

人間は広い意味では、全員利己的である。自分がしたいことをして生きているだけだ。しかし、どんな利己的な人間であっても、もし物理的な個体としての自分だけを自分と思い、その自分を利するためだけに命を使うなら、そこに待っているのは、絶望以外にはない。

地位も名誉も財産も何一つあの世に持っていくことはできない。現実の身体が無くなってしまえば、物理的な個体としての自分は終わり。後には何も残らない。自分しか自分であると思わない人は、絶望するか、絶望を見ないようにして虚無主義を気取るしかないのだ(長くは続くまい)。

これを解決する唯一の方法が「自己犠牲」ではないか。

しかし、本当の意味では「自己犠牲」はただの「犠牲」ではない。

自分よりも大きなもの、自分以外の物事や人に対してまで自分を拡張できた人が、拡張された自分を利することである。それは、自分の命のバトンリレーのようなものであり、そこにあるのは単なる慈善的、奉仕的な心だけではない。

そこに見えるのは、絶望の淵に落ち込もうとしているちっぽけで臆病な心を持つ我々が、永遠の命への最後の望むをつなごうと、かすかな希望の灯を持つ何かに一生懸命手を伸ばしている姿だ。

その何かに、自分がこの世に残したい一番大切なものをなんとか手渡せた人だけが、絶望の淵に飲み込まれ、落ちて消えていく中でも心安らかになることができるのだろう。

もともと人は一人ひとりが過去の大勢の誰かの願いの集まり。いろんな思いや願い、信念、愛がつまったものが自分。自分はゼロから生まれたわけではなく、遠い過去に生きた大勢の人々の念の塊。

そういう自分が再度、一度閉じ込められた物理的な身体的な殻から、自分の概念を解放したって不思議ではない。小さなブロックで組み立てられた構造物を、もう一度ばらして別の何かを作るようなものだ。

その中で、一番大事にしているブロック。誰か(知らない人かもしれない)から引き継いだ大切な何か。そこに自分の本質を見出すのであれば、そのブロックが生きてさえいれば、自分は永遠の命を得る気持ちになれる。

すでに人生の正午を超えた自分にとっては、上術は絵空事ではなく、かなりリアルな実感を伴う感覚である。物理的な自分なんて、いつどうなるかわからない。明日、消え去っているかもしれない。

だから自分は常日頃から、いつも誰か信じられる人に、大切なものを早く手渡したいと思って生きている。僕が持ってしまっていては、僕とともに消えていくかもしれないから。

自分の子どもは一番近く、わかりやすい人生の次のリレー走者だ。

だが、まだ幼い我が子は、僕と同じ思想や感性の持ち主かどうかなどわからない。そもそもまだ物心もついてるかどうか。それを勝手に自分の大切なものを継ぐものと思えるかというと、そんなにナイーブに気持ちにはなれないのが実情。

たぶん、彼は彼自身で自分の大切なものを見つけることだろう。

しかし、他にも大切なものを手渡せる人は、幸い僕のまわりにはたくさんいると思っている。

会社のメンバーや仕事仲間もそうだし、学生時代からの友人達もそう。家族もそう。就職活動や採用面接やイベントなどで出会う学生さん達だって、そうかもしれないし、今、人事や採用のお手伝いをさせていただいているお客様もそうかもしれない。

自分が接する人の中で、自分が大切にしているものを同じく大切と思ってくれて、それを次の世代へ、別の世界へ、つないでいく役割を引き受けてくれる人が、たくさん生まれるとすれば、どんなにうれしいことだろう。

敬愛する故河合隼雄先生は授業でおっしゃっていた(うろおぼえ。文責は曽和にあります。勝手な思い込みかもしれません)。

「教師やセラピストは中途半端な存在。自分では何もできない。しかし、大勢の人の触媒になりうる」と。

僕は人事やある種の経営者やマネジャーなどもそんな気がするが、河合先生がおっしゃるように、触媒になれることは誇りに思う。

歴史に名を残すかどうかは、そういう役目(何らかのテーマの「ラベル名」になるという)だったかどうかというぐらいのことで、どんな人間も、自分を通して、もっと自分より大きなもの、大切なものをつないでいくだけの者であるという意味においては、名を残していない何百万、何千万、何億の人々と何ら違いはないと思う。

そういう視点で見れば、自分を利用して、踏み台にして、使ってくれるような人がたくさんいることは望ましいことだ。そして役目が終われば、次に必要なところに行くか、それもなくなれば、穏やかに消えていくのみ。

自分の存在意義を確認したいがために、自分がいなければ回らない組織や社会、人間関係を作ろうと必死になる人もいるが、僕は逆であると思う。そういう組織や人間関係しか作れなかったら、それは大切なものを誰にも渡しておらず、大切なものは自分と心中することになる。

人に知れずとも、誰かの何かのきっかけになったり、考え方を誰かの心に潜ませたり、そんなことができれば、人生、恩の字だ。

自分がこの世で出会った、大いなる何か、大切なことと比べれば、

自分などはたまたま、この地球、この地域、この時代に生まれ、それを運ぶ係りとなった、ただの通りすがりなのだから。

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