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未必の故意
変な時間に寝落ちして、変な時間に起きてしまい、目が覚めてしまった。
最近、「みひつのこい」という言葉が頭に染み込んで離れない。
行為者が、罪となる事実の発生を積極的に意図したり希望したりしたわけではないまま、その行為からその事実が起こるかも知れないと思いながら、そうなっても仕方がないと、あえてその危険をおかして行為する心理状態。(Googleより)
今の世の中、そういう気持ちで過ごしている人は多いのではないだろうか。もちろん自分もそうだ。
食べ物を買いに行くだけでも、知らずに誰かを殺してしまうかもしれないという世界。
しかし、戦後いた闇米を食べずに亡くなった裁判官のような人にはなかなかなれない。
生きるためには人に迷惑をかけ続けるしかない。迷惑をかけずに生きられると思うのは傲慢か痴呆だ。
「何事も心にまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。しかれども一人にてもかないぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」
(歎異抄)
また、迷惑とありがたさは裏腹だ。育児や介護のように、迷惑をかけられるうれしさということもある。
沖縄や湘南の人も、人々にやって来て欲しいが、やって来て欲しくないとも言う。よくわかる。
みんな迷い悩んでいる。明確にどちらがよいなどとは軽々には言えないでいる。
それで、篭ってみたりもするが、少し出歩いてみたりもしている。
小さな確率ではあるが、何かすれば自分や他人を殺す可能性があることを知りつつ。
それはまさに「未必の故意」ではないか。どんな人でも逃れられることなく共犯者だ。
いや、今だからそうなったわけではないのだろう。人間の世界は太古以来ずっとそうなのだ。
それが偶々、感染症という厄災によってはっきり現れたに過ぎない。
道端に倒れた様に眠る人がいるよ
一度は目にするが すぐに目をそらして通りすぎる
誰もが不幸になるかもしれない自分を守り
自分の愛を向けることもバカらしくて出来ない
まぬけな人ごみ
俺もまた先の解らぬ不安の中にいる
今を何とか生きる事で 心に余裕もないよ
金もとれない 学生に一体何が出来るのか
どんな奴らも つまりは自分の将来以外
どうでもいいと思うはずさ
愛の消えた街さ 昔からそうなのだろうか
それがあたりまえと言うには俺はまだ若すぎる
見つけたい 見つけたい 愛の光を
(尾崎豊「愛の消えた街」)
アダム・スミスが言うように「個人個人が自分の利益を追求することによって、(神の)見えざる手に導かれるかのように社会全体の利益にもなっている」と考えて、思うままに生きればよいのかもしれない。
倫理的に生きる人、欲望のままに生きる人、正義感から他人を責める人、優しさから他人を許す人、それがどんな割合でいるのかは世界の歴史、人類のこれまでの所業の結果であり、受け入れざるをえない。
これがこのまま人類であり、世界であり、日本の認めざるをえない本当の姿だ。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」
(ヨハネによる福音書)
そんな人がいるなら、どうぞ石を投げたらよい。
いるのであれば。