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依存したって、かまわない
社会的望ましさの観点からは、「何かに依存することなく、自立せよ」とよく言われる。理由は言う人によってそれぞれだが、おおむねは以下のようなことだろう。
依存をすると、こうなってしまう・・・
●依存する対象なしでは生きられなくなるから、依存する対象に操られてしまう
●自分で自分をコントロールできない人は、約束を守れないから信じることができない
●だから何にも依存することなく、自立して生きよ
まあ、そうだなぁ・・・とも思うのだが、厳密に言えばそもそも自由意思なんて限定的にしか存在しないと思っている自分としては、現実に立脚しない理想論であるように思える。
まず、何故に人は何かに依存するのか。
人は、まずその存在を母胎との一体感から始める。世界と自分は分離されておらず、大いなる宇宙の中に埋没してその存在が始まる。羊水の海にゆらりゆらりと揺れながら、意識も無意識も、覚醒も眠りも混濁とした中で生きている。それは心地よく安心できる場所であろう。いや、不安もないから、安心するという概念さえ無く、ただ、何も考える必要もなく、穏やかに生きているのだろう。
だが、生まれおちた瞬間から、その一体感は消えていく。へその緒を切られて、母親から直接的に栄養をもらうことはできなくなり、呼吸が始まり自分で世界を取り込む必要が出てくる。文字通り一体であった母子は物理的にまず引き離される。
そして今度は、心理的にも引き離される時がやってくる。母親から物理的に引き離された子どもは、自分から世界に働きかけ、要求し、何かを得るという行動を取っていかざるを得なくなる。食べ物や空気や水などなど。自分の欲望を自動的に満たされていた時(すなわち欲望を欲望と感じることがない時)には、感じることがなかった欲求不満を感じることになる。世界は自分の思うどおりになどいかないのだから。食べ物が欲しい時に泣いても、食べものはやってきたり、こなかったりする。そういう体験を通じて、世界は自分とは別のもので、自分の意思どおりには動かないものだということに気づき、自分は世界から切り離されていると認識することになる。
そんな風にして、人は人生の最初から、一体感からはぐれ、孤独になっていくプロセスを味わうことになる。だから、人はもう一度最初の一体感を取り戻そうと、何かをその手がかりにしようとして依存していくのではないだろうか。
この引き離されるプロセスを、きちんと現実のものと受け止めて消化する、すなわち、深く絶望することで深く諦めがついた場合には、人はようやく前を向いて歩いて行くことができる。自立を受け止めることができる。もう二度と、原初のようなとろけるような一体感はこの世には存在しないのだと、深く諦めることで。
しかし、それは現実的には可能だろうか。
「ある」ことの証明は簡単だが、「ない」ことの証明は「悪魔の証明」と言われて極めて難しい。黒い白鳥はこの世にいないと、どこの誰が証明できるだろうか。しかも、「究極の一体感」=「究極の依存関係」は、実際に自分の人生の原初に存在していたのである。「あった」のだ。一度あったことは、二度ありえると思うことは普通のこと。むしろ、一度あったものが、なぜもう一度ありえると思えないでいようか。
また、世の中には「究極の一体感」への階段を思わせる入口がたくさんある。お酒しかり、宗教しかり、スポーツなどでの高揚感しかり、恋愛しかり、セックスしかり・・・。むろんこれらすべてには終わりがあり、これら自体は「究極の一体感」ではない。しかし、その入口を思わせるものではある。「この先に進んでいけば、いつかのあの世界にもう一度到達できるのではないか」と思わせるものではある。
そんなわけで、なかなか何かに「依存しない」ということは実際には難しいのではないだろうか。
もっと言えば、「依存する」ことに積極的な意味、メリットもある。
「依存」と言うと、世間での言葉の使われ方から、どうしても否定的な意味合いを帯びてしまっているが、これを「信念」とか「ポリシー」とか「価値観」とか言い換えるとどうだろうか。「信念」というのは、その人が依って立つより所。混迷の世界の中をたくましく生きていく上で道しるべとなる考え方や価値観や理想。これは「依存」とも言えないだろうか。
また、よく「自由」という言葉の定義を議論することがあるが、以前にも述べたのですが、僕はB'zの稲葉さんの定義(・・・)に賛同していて、自由とは「束縛されないこと(≒自立、independent)ではなく、譲れないものをひとつ持つこと(=ここで言うと何かに依存することとも言える)」である。ここにも「依存」が見え隠れしている。
依存することなくしては、自分の存在の軸もなく、なので明確な自己判断もできず、結局自律的に動くこともできない。何かに依存することによって、何らかの判断軸ができ、それによって行動を律することができる。その「軸」は自分の中からではなく外部から由来するものではあるが、そもそも、自分という存在はぜーーーんぶ外部から得たもので作られているのであって、完全に「内」から出てくる自発性などと言うものは無い!(と言い切ってしまうにはやや抵抗あるが、あえて言い切ってみる・・・)。
まとめると、
●人が何かに依存したくなるということは普遍的、根源的なものである
●まったく依存しないようになれるなんて、誘惑の多い中、非現実的である
●というか、何かに依存してないと、そもそも自律的に動くことなんて不可能
おそらく、「依存」という行為自体はニュートラルな価値を持つもので、依存する対象が現実的には存在しない「幻」や「誤解」であったり、手に入りにくい希少なもので獲得するのに多大な犠牲やコストを支払う必要があったり、依存する対象が自分が依存することを嫌がっていたり、そういうことが問題なのだろう。。。
「依存」自体が悪いわけではない。むしろ、人間は本質的に何かに依存して生きざるを得ない。依存する行為はとても人間的な行為であると思う。
そんなへ理屈をこねて、僕は自分が何かに依存していることを肯定したい・・・。その代り、誰かから依存されることも受け入れて、依存の輪がうまくまわるように義務も果たしたいと思います・・・。