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サヨナラの方法
以前、インテリジェンス(現パーソル)の広告で「いまとサヨナラしなければ、出会えないあなたがきっといる」というコピーがあった。
転職という「別れ」を繰り返して、今の状況になった自分としては、感傷的過ぎる(やや煽りすぎ)と思いながらも、心に刺さる言葉だ。「いま」から立ち去らなければ、新しい世界には行けない。それは事実だ。
しかし、「いま」はたいていの場合(他者より辛い環境であったとしても)居心地良いもので、立ち去りがたいものである。
まず、そもそも僕らには「いま」しかない。過去も未来も単なる幻であり、実体はない。確実なのは「いま」だけ。未来は何ら保証されることはない。過去は既に消え去ってしまってどこにも存在しない。そして、未来=不安とも言える。「いま」を手放したからと言って、即未来が手に入るわけではない。だから「いま」に固執する。
また、「いま」はある時点における「未来」が実現したものだ。なぜ「いま」の状態にあるのかは、昔にそれを追い求めたからかもしれない。もちろん心変わりは常にある。でも、昔、夢に見たもの、愛したものを、そんなに簡単に捨てられたり、憎めたりするようにはならない。
そんな風に、「いま」には魔力がある。
ただ、その「魔力」に魅入られたままで硬直していると、待っているのは「緩慢なる死」しかない。「いま」を支えている諸要素は常に変化し、いつかは「いま」を「いま」のまま支えつづけることができなくなる。
人は1年に1歳ずつ歳をとる。量的な変化だけではない。29歳と30歳、39歳と40歳など1つ違うだけで心持ちや周囲の見方が違ってくる。身体能力やそれに裏付けられる気力も変化する。
気力が変わると嗜好も変わる。いつまでも肉ばかり食べ続けられない。嗜好が変われば、もし「いま」が変わらなくとも、自分の方から「いま」が嫌になることだってある。
だから、「いま」からはいつか立ち去らなくてはならないのだ。立ち去りがたいものから立ち去る力、このサヨナラする力の高低が人生には大きな影響を与える。
では、どうすれば「いま」とサヨナラできる力がつくのだろうのか。
第一の方法は、新しい「いま」候補を探し出すことだ。「愛する力」と言っても良い。気の多い人はすぐに新しい好きなものを見つけ出す。新しい「いま」に引き寄せられることで、古い「いま」から離れることができる。
「愛する力」は「身を任せる力」「妄想を信じる力」とも言える。先に述べたように「未来」=「不安」。自己防衛本能の強い猜疑心の強い人は、愛する力が弱い。愛すること、惚れることは弱くなること。自分を対象に対して裸で晒すことでもある。
身を晒すことができるためには、根拠のない自信(ベーシックトラスト=世界に対する基本的信頼感)がなければいけない。ポジティブ思考と言ってもよい。「頑張れば報われる」「人は信じるに値する(性善説)」等の信念を持つことに近い。
ただ、これらの力は残念ながらおそらく歳をとるにしたがって、伸ばしにくくなるもので、大人になってからは大幅に改善しにくい。だから、この方法を取れる人は限られる。
第二の方法は、古い「いま」が死に体であることを冷静に捉え、腹に落とすこと。「いま」を肯定したい気持ちを抑えて、現実を見れば、「いま」の延長線上には幸福は待っていないことが見えてくる。
この残酷な事実を直視する勇気を持てば、「いま」とサヨナラできる。これならまだ第一の方法と異なり、大人になってからも身につけられる。いや、子どもよりも沢山の経験を積んだ大人だからこそ、よりよく取りうる方法かもしれない。
この方法の特徴を一言で言えば「絶望を経ることで希望を得る」ということだ。ある意味捨て身の作戦である。エリザベス・キューブラー=ロスという人の提唱した「悲しみの5段階」でも、同じプロセスがある。
人は認めがたい悲しい出来事に直面したときに、次の5段階のプロセスをたどるという。
まず、「否定」。「いやいやそんなことはないだろう。冗談だよね?」という段階。
次に、「怒り」。「なんでそんなことになった。誰の責任だ」という段階。
そして、「交渉」。「なんとかならないのか。無理すれば抜け道があるのでは」という段階。
その後、「絶望」の段階となる。「ああ、もう終わりだ。希望は全て消え果てた」
そうして完全に絶望を噛み締めた後に、一筋の光明が見えてくるという。それが「希望」の段階である。「もうあの幸せな日々は終わってしまった。どうしようもない。いつまでもクヨクヨしているわけにはいかない。前を向いて歩いていくしかない」
「喪に服す」という行為も絶望を噛み締めることで希望を見出だすこと。程度の差こそはあれ、それぞれの人生で何度も訪れる「死と再生」においても「喪に服す」ことが、新しい未来を導くのである。
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このように「いま」とサヨナラすることは大変難しい。
しかもサヨナラする力が強すぎても良いのかどうかわからない。
先ほど「緩慢なる死」と書いたが、誰もが最後は死にゆく存在なのだから、それでよいのではないかとも思う。
自分のように何かに急かされるように生き急ぐことが良いかどうかは分からない。退屈に見える「いま」を大事にゆっくり生きることに憧れる時もある。
結局は、人ぞれぞれ。信じた道を歩むしかない。ただ、新しい世界を覗きたい気持ちのある人であれば、いくら大変でもサヨナラする力を身につけなければいけないのである。