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人生は同じところを回るだけ
時間は「直線」で表現されることも多いが、日常生活においては「円環」と感じることの方が多い気がする。
ビジネスや科学技術などのように、過去のものに改善や改革を重ね続けて、後戻りすることが基本無いような世界においては、時間は「直線」として認識する方が適している。
「現在」にある最新の状況に過去からのものがすべて詰まっているから、原則的には過去に立ち戻る必要はない。過去とは遠くに過ぎ去って見えなくなったものだ。
一方で、日常生活は繰り返しばかり。1日という単位でも、1年という単位でも。
ベッドで目を覚まし、歯を磨き、顔を洗い、身なりを整え、朝ごはんを食べ、仕事に行き、昼ごはんを食べ、夜は友と飲んで、へべれけになって眠る。1日はこの繰り返し。
春になれば梅や桜を愛で、夏になれば海や山で遊び、秋になれば紅葉狩り、冬になればクリスマスやお正月や節分・・・。季節をベースにして、1年はこの繰り返し。
繰り返し、つまり、同じところをぐるぐる「回っている」わけで、この場合、時間は「円環」として認識する方が適している。
「円環」として認識される時間の中では、僕らはどこへも行かない。ずっと近くにいて、ぐるぐる回って、そして同じ場所に毎度戻ってくる。
過去は遠くに過ぎ去ったりせず、いつもすぐ近くにある。その証拠に、こないだ見た大文字の送り火や祇園祭の山や鉾がまた同じようにやってくるじゃないか。
過去が消え去ったと考えることは、とても辛いことだ。自分を作ってきたものは過去。言わば、血を引き継いだ親のような存在とも言える。
そこには、幸せも悲しみも含め、様々な愛しい思い出が詰まっており、もうどこにも存在しないなんて思いたくない。
そういう場合、時間を「円環」と考えることは、心には優しいイメージだ。
すべてのものがまためぐりくると思えれば、別れは永遠ではなく、一時のものとなる。出会ったものは必ず別れるが、その後、いつかは必ず再び出会うと思える。
そのようなメンタリティを持つことができたから、日本人は「はかなさ」のようなものを愛でる「余裕」が生まれたのかもしれない。
もし、一度消えたものは二度と現れないという乾いた思想を持っていれば、「はかなさ」は単なる絶望にしかつながらない。
しかし、時が円環であると感じる者にとっては、「はかなさ」は一時の神隠しであり、いつか再びその神の慈悲がこの手に戻してくれると信じることもできる。
「会えない時間が愛育てる」(by Hiromi Go)ではないが、必ず戻ってくるのであれば、一時の不在はむしろ刺激的なスパイスになりうる。
日本に四季があるのは自然から与えられたものであって、人間の仕業ではない。
このたまたまある四季によって得られた、「はかなさ」を愛でることのできる稀有な心持ちは、大切にしたいものだ。