ノリ突っ込みで生きる
自分はマネジメントにおいて、「企業=小学校」説をとなえている(半分ネタですが)。
班とか係とか、朝礼とか、表彰とか、掲示物とか垂れ幕とか、誕生日会とか、お別れ会とか、やり方が似ているし、あの小さくて丸いカラーシールで何かの成果をグラフで表していくなど、企業か小学校でしかあまり見ない。
おそらく、アラインメントを強くしようとしたら、ああ言うマネジメントになるんだろう。拡散、多様化を志向する時は、あんな風にはならない。
揶揄しようと言うわけではないが、自立した大人がハッと気づいた時、企業での小学校じみたマネジメントに白けてしまうことも容易に想像できる。
サイバーの曽山さんが、人事制度を作る時に、白けをイメージしようと言うのは、すごくよくわかる。
ただ、社員の側から見た時、白けることで得られるものはあまり無いのではと思うのです。
経営者か人事か誰かの仕掛けに白けて乗らないことで、「あむない、あむない。もうちょとで、危うく乗せられてしまうとこだったよ」とつぶやいた後に何が残ると言うのだろう。
人生にあらかじめ定められた真の生きる意味など別に無い。
ただ、個々人がそこにどんな意味付けをして、どう楽しめるかで、幸福感が決まる。
問題は、その意味は自分から出たものじゃないといけないのか、ということ。
どちらにせよ、後付けの形而上学、実体の無い夢幻。どちらでも、いいじゃないか、と思う。
いろんな人が提案する意味に明るく乗れた方が、選択肢が多くていい。
踊る阿呆に見る阿呆なら、踊る阿呆がいい。
経営者も人事も基本的には関係者の幸せを考えているのだから、一度はノッてみて、ダメなら「なんでやねん」と突っ込めばよいんじゃないか。