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「諦める」という幸せ

大体の世界的宗教で用いられている幸せになる方法は「諦める」という要素が含まれているように思える。

自分を取り囲む様々な現実を、自分の理想状態に変えることを諦める。そうすることで、心の平安を得る、という方法。

仏教で言えば、「唯吾足るを知る」(たまにお寺の庭に石で彫ってある)がそうか。キリスト教で言えば、「貧しきものは幸いである」とかか(真に宗教的な意味は知りませんが…)。

現実を自分に合わせるのではなく、自分を現実に合わせる。現実の「認識」の方を変える。自分が価値を感じる意味付けをして受け入れる。

確かに諦めることで気持ちが楽になることがある。

僕は既に、学者、歌手や作詞家、小説家、椎名林檎とつきあうこと、京都での永住、リクルートで人事部長になること、などは全部既にとうの昔に諦めた。

諦めたことで、目の前の仕事や人に集中ができる。かけがえのないものに思える。諦めたものに対する心残りが、一層自分の目の前に残ってくれているものに対しての愛着や感謝の念を沸き立たせる。

こんな僕なのに、残ってくれたのか・・・と(あいつは行ってしまったのに)。諦めることで、自分を包む現実世界を愛することができる。そして、愛されるものに包まれている人は幸せである。

しかし、一方で、これは為政者にとって、大変都合のよい思想である。なにせ、「諦める」ことを学んだ者は、現実を変革しようとしないからだ。現実に対して肯定的で、そのまま受け入れる。こうした態度は今権力を得ている者にとっては好都合。

だからか、江戸幕府は庶民向けに仏教を布教することを推進したと聞いたことがある。「寄らしむべし、知らしむべからず」の江戸幕府らしい統治の仕方に思える。

まれに諦めない者が出ると、彼は反逆者になる。現実を改革しようとすることは現体制にとっては敵。だから彼はつぶされる。「足るを知れ」「分不相応だ」という声の下に。やはり「諦めが肝心」なのか・・・。

でも、だからと言って、おとなしく羊のように飼いならされていることは幸せなのだろうか。

僕はどうしたらよいかわからない。

諦めた方がよいのか、それとも現実に立ち向かうべきか。

どちらが本当の幸せなのだろうか。

自分に期するところが大きい人は、なかなか諦めない。現実変革の力があれば、その「諦めなさ」はいつか花開く。

しかし、力が足りなければ、地獄の苦しみかもしれない。

「求めても得られない」という「求不得苦」は四苦八苦の一つであるぐらい苦しいものとされる。期待するから落胆する。高望みするから実現できずに悲しみに暮れる。

今のところ、自分はまだ諦めきれない。

自分はまだまだこんなものではないと思いたい。

理想を実現するために、現実を変革したい。

現実の変革は抵抗を伴い苦しいものだが、またあの現実を乗り越えた達成感をこれからも何度でも味わいたい。

しかし、諦めて楽になれ・・・と耳打ちするもう一人の自分がいるもの事実。

彼の正体は、悪魔か、仏様か・・・

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