恥ずかしいキャリアの私(その2)生々しい人事からの逃走
●彼女がいるから関西にしてください(涙)
自分が配属を担当するようになってからは「彼女がいるから関西に配属してくださいとか言うなよ」とか言ってしまっていたのですが、当時の私は「彼女がいるから関西に配属してください」と言って関西に配属してもらいました…。懺悔します。
今の私が当時の私にアドバイスするなら「学生時代に付き合っている人は9割別れるんだから、あんまりそれで勤務地とか選ばんとき。遠距離でダメになるならそれまでのことや」でしょうか。転勤あかんやん時代には不適切な話ですが。
●リクルートの仮面を被ってナンパ三昧
リクルートの採用はとても楽しかったです。阪神大震災直後の入社だったので、最初の仕事こそ凄い数のパンフレットの封筒にお見舞い文を入れるという単純作業でしたが、震災が落ち着いてくると、学生とバンバン会う日々となりました。
コミュ障な私は、ナンパとかしたことはもちろんありません。合コンとかすら、ほとんどありません。はっきり言って人見知りです。今もパーティーとか大嫌いで、どう立ち振る舞ってよいのかわかりません。学生時代に一度当時あった祇園のマハラジャで女子大とのダンスパーティーに誘われて行って激しく後悔した記憶に未だ苛まれています。
しかし、「枠組み」とは不思議なもので、「人事」という仮面を被ると、役割意識というか、役者みたいな気分になり、別人になれたような気がします。「学生に会って話すのが仕事」と強制してくれることで、「どうしてよいのかわからない」とか「僕なんかと話して楽しいのかどうか」とかの中二っぽい悩まなくていい悩みが消えていきました。
そこから3年間、朝学生に電話、昼は学生と会社やカフェ(当時は「喫茶店」)で面談、夜は学生と飲みという日々となります。いわば少し年下の学生相手にナンパしまくっていたようなものです(ただし、基本、同性)。
●こんなことしていて大丈夫なのか
人にたくさん会うことは、私の様々な精神的な欠陥の治療になった気がします。人見知りは「仕事」と捉えれば大丈夫になりましたし、極度に狭い交友関係で今思えば偏った人ばかりが友人だったのですが(友人の皆さんすみません)、世の中にはこんな面白い人がたくさんいるんだ、とようやく気づけました。
しかし、仕事としては不安がありました。リクルートは若い人が活躍できる会社です。私は学生と会っている間に同期の人たちはかっこいいプロジェクトをこなし、成果をあげていました。もともとビジネスには全く興味がなかったのですが、それでも徐々に焦ってきました。
今でこそ採用もマーケティングだとかブランディングだとかシステムだとか、賢気な仕事になってきていますが、当時は「ひたすら学生に会うだけ」としか思えず(本当は上司先輩の立てた戦略があったのですが、見えてませんでした)、「僕はこんな学生と戯れてばかりで本当に大丈夫なのだろうか」と悩むようになりました。
●直訴して東京に転勤
そこで、私は思い切って東京へ異動願いを出しました。リクルートには当時「自己申告制度」というものがあり、キャリアの希望を毎年出していたのですが、それまではいつも第1希望は「京都のホットペッパー」(本当にそう書いていました)とか第3希望まですべて「関西の〇〇」で出していたのをやめました。
先輩から上司へと順番にお願いしていき、最後は今のJリーグのチェアマンをされている村井さんにお願いが通り、晴れて?4年目にして東京に転勤になりました。
人事部企画グループ兼教育研修グループという配属になり、採用から外れて、当時の私の思う「仕事らしい仕事」につくことになりました。採用の深さがまだ見えていないから、「企画」とかつくと賢い感じがしたというアホな理由です。今も学生さんは「企画の仕事がしたいです」とか言いますが、私も変わりません。でも「いや、仕事は全部企画だぞ」と当時の私に言ってやりたいです。
●研修は楽しかった
教育研修グループは後にリクルートスタッフィングの社長となる長嶋由紀子さん(わんこさん)の下で働かせていただきました。リクルートビジネスカレッジというプチ社内MBA的なものを始めたところでいろいろな研修の企画と運営をしました。
今では研修は様々なパッケージが世の中にあるので、それを買い集めるみたいなことになってきていますが、当時はそんなパッケージはありません。
ロジカルシンキングは元マッキンゼーの齋藤嘉則先生に、人事戦略は人事コンサルティングの元祖高橋俊介先生や野田稔先生や組織論の第一人者神戸大学の金井壽宏先生(後に弟子筋にある服部先生や伊達洋駆さんと働くとは…ですが)に、新規事業は今や押しも押されぬ一橋の楠木建先生にお願いしていました。
今思えばありえない豪華さです。しかもパッケージではないので打ち合わせさせていただいたりする。しかも必ず傍聴できる。心理とか哲学とかにしか興味がなかった自分がビジネスの面白さを教えていただいたのはこれがきっかけだと思います。
ビジネス本などほとんど読んだことがなかったのですが(半ばバカにしていた)、この仕事で大量のビジネス本を読むことになり、その面白さにようやく気づくことになります。26歳ぐらいにして。
白状しますが、それまではPLとかBSとかキャッシュフローとか資本金とか上場とか全く分かっていませんでした。上場するとなんで金持ちになるとか意味がわからないままでした。恥ずかしい話です。
●企画という仕事はまだむいてなかった
問題は主務の方の企画グループでの仕事でした。こちらは変わりゆくリクルートの屋台骨を作る仕事で、今のミッショングレード制度の策定をはじめとした様々な人事諸施策の変革を行なっていました。
その中には現在リクルートホールディングス専務の池内さんなどがいらっしゃいました。また、コンサルタントとして高橋俊介先生にお願いをしていました。私はただのペーペーで事務局で議事録取ったり、上司や先輩に指示を受けて下作業したりしていました。
当時のリクルートは大変革期というか、今から思えばあそこでいろいろ変わらなくては潰れていたかもしれないという大綱渡り期でした。なにせ1兆円からの借金を返しながら、事業を紙からネットに移しながらという時期でした。当たり前ですが、皆真剣です。
事業が変われば組織も変わります。時には人を入れ替えなくてはいけません。これまでの功労者にご勇退いただく必要もあります。わかりやすい話なのですが、当時の私には会社が冷たく見えました。
制度設計などの企画の下作業として様々な人事データをさわりました。人事データなどメンタル弱い人は見るものではありません。誰が評価されてどのくらい給料があるのか。知らなくていいことはたくさんあります。いろいろショックを受けました。
思えば、人事企画をするには私は未熟過ぎたのだと思います。目の前の人しか見えず、「全体最適」ということが理解はできても共感ができませんでした。人を数字で捉えて仕事をしなくてはならない企画(今はそうは思いません)は当時の私には向いていませんでした。まだダメでした。
リクルートの本質もわからないくせに勝手に「こんな会社ダメだ」と決めつけました。自分が理解できないことは否定する。なんてバカなやつでしょう。当時の人事担当役員に企画グループの方々の「冷徹さ」を訴えたところ「あいつらの優しさや責任感がわからないようでは、おまえはなんて底の浅いやつなんだ」と諭されました。今ではよくわかります。
●闘争ではなく逃走へ
そこで、いろいろ戦えばよいのですが、私は「辞めてやる」と逃げ出そうとしました。研修の仕事で読んだ「ビジョナリーカンパニー」で賞賛されていたソニーに転職しようと短絡的に考えました。ここならビジョナリーだろう、と笑。そして中途採用に応募して内定をもらいました。最終面接で「あなたは運の良い人ですか?」と松下幸之助がいつもしていたという質問をされたことを覚えています(パナソニックやん!)。
このあたりから人生がさらに蛇行し始めるのですが、今回はここで終わります…(まだ27歳…)。