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「幸せのレベル」は低い方がよいか
僕は味が分からない。
正確に言うと、なんでもおいしく感じる。カレーなど、まずいものに出会ったことがない。
友人で舌の肥えた人がいて、一緒にご飯に行くと、あれがまずい、これは味が濃い、薄い、とぼやいている。
僕はそれを聞いて、「別に、おいしいけどなぁ・・・」などと思う。
すごく悩ましい問題なのだが、僕とその友人はどちらが幸せなのだろうか。
僕は味が分からないから、なんでもおいしいので、食に対してあまり不満を感じない。しかし、味の分かる人が知っている深淵なる世界を僕は知らない。
彼は味が分かるから、世の中にあるまずい食べ物に触れては不快な思いをしなくてはならない。しかし、まれに出会う極上の味のものに対して、目一杯喜びを感じることができる。
某社で採用責任者をしていた時、求める人物要件の一つが「幸せのレベルが低い」ということだった。つまり、小さなことで幸せを感じるということ。小さなことで喜べる人は、エネルギーをいろいろなものからもらえるから、結果、高いパフォーマンスを出すことが多い。そういう理屈だった。
それでいうと、僕の方が幸せのレベルが低いので、良いということになるが、自分でも、「そんな幸せが本当の幸せなのかな」とも思う。
悩ましい。
これは味だけではなく、どんなことにも当てはまる。
音楽をやっていて耳が肥えている人は、世の中は不快な音だらけだろうし、ファッションセンスの良い人は、安っぽいダサい格好は死んでもしたくないから服に莫大なお金がかかりそう。
先日、某新聞にあったJ-POPの歌詞が画一的で貧相であるという記事についても、似たような気持ちを持った。詩などの言葉についての感性が豊かな人であれば、今のJ-POPの(昔からかもですが)貧困なる歌詞(とあえて言っていますが、僕はそうは思いません)に触れるたびにため息が出ることだろう。でも、言葉に関してそれほど感受性の無い人であれば、貧困な歌詞で十分に感動して涙できる。世にある歌を聴いて、あれこれ皮肉めいた気持ちにしかならないのと、自然に普通に感動できるのと、どちらがよいのだろう。
悩ましい。
子育てにおいても、よく「本物志向」とか「違いが分かる人に」とか言うが、親の意図通り、本物志向に育ってしまって、水はどこそこの天然水、魚は大間のマグロ、肉はA5和牛でないと・・・とか言い出したらどうなるのだろう。お金持ちになれる職業につければよいが、そうでなかったら、彼にとってこの世は地獄な気がする。
まあ、僕にはすでに選択肢はなく、違いのわからない男になっているため、そういう点ではなんとなく幸せに暮らせているのだろう。
一生垣間見ることのない、素晴らしき桃源郷のことなど、想像もできていないのだろうけども・・・