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曖昧なままで生きる
「白か黒で答えろという難題をつきつけられてしんどい」みたいな歌があったが、この世界のほとんどは本当は灰色である。白でも黒でもない。
しかし、大抵はそれをどちらかといえばこっちとデジタルに決めてしまい物事をシンプルに明確に考えていくことが「わかりやすい」とされる。
自分も仕事においては、「そうやなぁ、どっちやろうなぁ」で放置しておいては済まないので、そうしてしまっている。どちらかに決めなければ話が進まない。
でも、「わかりやすい」かもしれないが、要は「本当は曖昧な現実」とは違うものを根拠に論を進めることになるから、得られる結論もまた必ず間違っていることになる。
こうやって人間は世界を「きれいに」誤解し、「きれい」に間違っていく。
そして、現実との乖離がどんどん大きくなって、ある時カタルシスが訪れて、次の「誤解」をなんとか作り上げないといけなくなる。
人生や世界はそういうことの永遠の繰り返しだ。
人事の仕事の中では、採用は「明確化」が求められる仕事だ。要は採るのか採らないのか、二つに一つしかない。評価・報酬もそう。最終的にいくら払うのか、きちんと決めないといけない。
しかし、人材育成や組織開発は、やや趣が違うように感じる。
最終的になんらかの明確な落としどころを求められる採用や評価と違い、人材育成や組織開発にはそもそも曖昧な目標しかない。加えて、スタート地点である今の状態自体が、曖昧にしか、捉えることができない。
そこでよく間違うのが、「明確にしなくてはいけないのではないか」という思いである。「見える化」とかしなきゃいけないんじゃないかとか。
でも、それは本当は逆。採用や評価は「明確化しなければならないので、仕方なく(現実とは乖離があるのに)明確化しているだけ。本当はしなくてよいのであれば、しないほうがよい「必要悪」だ。真似することはない。
特に、人間関係などは何がどうなのか、極めて曖昧で真実は常に薮の中である。人事として問題の起こった組織のメンバーにいろいろとヒアリングする機会があったが、真実は一つのはずなのに、全く正反対のことを言う人がいることなんて日常茶飯事だった。
ここで正しい態度は、けして「どちらが本当か」を問いただすことではない。真実は一つとしても、各人がその真実を三者三様に解釈して、主観的にはそう思っているということ自体は心理的事実である。
なので、自分は人事として組織開発や人材育成に携わる際に「話は半分に聞く(=全部を真実とは思わない)」「拙速に動かない(=すべては「仮説」として、一旦判断を保留しておく)」ことを心掛けていた。
実感として思うのは、上記の態度の方が、「僕はあなたの言うことを真に受けて、きちんとすぐに動きますよ」などと言って向き合うよりも、相手がリラックスして好きなことを話せるのではないかということ。
普通は「真面目に話を聞く」方が真摯に相手に向き合っていると思われると思うが、本当はそうではない。
それは、言っている本人も自分の言っていることに自信がなかったり、あるいは自分の言っていることが偏見や思い込みであることに気付いているからだ。
だから、そこでの正しい態度は「受け流す」「正解・不正解を定めない」という曖昧なままで受け止めておく態度なのではないだろうか。
・・・
形あるものは壊れていく。
明確に定義されたものや関係性は必ずその定義から離れていく。
人間の認識能力の特性上、曖昧なものを何の型にも当て嵌めずにそのままで置いておく、ありのままで置いておくのはかなり難易度の高い技である。
しかし、真実はグレーである。白でも黒でもない。
明確化の誘惑に負けず、曖昧さを抱きしめて生きることが必要なこともあるのではないだろうか。