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負けるが勝ち
ふつう、何かから「逃げること」は悪いこととされる。「責任逃れ」「勝負から逃げた」など。
一方で推奨されるのは、「対決すること」だ。「立ち向かう」「対峙する」など。
もちろん、僕も「逃げる」ことは基本的には嫌いだ。負けた気がする。プライドが傷つく。自信を失う。
また、もし、いろいろな人が自分の持ち場からどんどん逃げ出したら、社会の秩序は崩れる。この世の至る所で、大変なことから逃げ出さずに対峙し続けている人達がいるから(例えば福島の原発事故に対応した方々など)、僕らの生活が保たれている。
だから、「逃げる」ことが、悪いこととされていても、致し方ない。学校でも企業でもそう教えないと、日常がうまく回っていかない。
しかし・・・「対決すること」の方が良くない結果になる場合もある。
マイケル・ジャクソンは、「Beat It」で、意味のないケンカを吹っかけてくる来るワル達に、なめられたくない、自分の力を見せつけたいというような小さなプライドを理由に対決するのではなく、どんどん「逃げろ」(Beat It)と言った。
誰が正しいか間違ってるかなんてどっちでもいい。くだらないことを決するために、互いを傷つけ合うな、相手が引かないのであれば、どんなに格好悪かろうとも、勝負を避けて逃げろ。それが本当の勇気だ、と(超訳(笑))。
最初、この歌を聴いた時、正直、「逃げろ」とか言ってるの格好悪いな・・・と思った。軽快なロックのリズムに乗せる歌詞として、適切には思えなかった。
しかし、自分が逃げることによってしか、不毛な戦い、命の無駄遣いが回避できないのであれば、小さなプライドが少しくらい失われたって逃げる方が格好いい、と今では思う。別に、「あいつは逃げた」と笑われたからと言って、大したことはない。そんなことぐらいで消える自信などいらない。
ウィストン・チャーチルは、「復讐ほど高価で不毛なものはない」(nothing is more costly, nothing is more sterile, than vengeance)と言った。
児童問題における「虐待の連鎖」という極めて悲しい現象にもあるように、認めたくないけれども、人間は「されたことをし返す」ことがプログラミングされているかのような自動機械的存在だ。本能に任せて(これは「心の決めたままに(My Way)」ではなく、「意思を入れずに」ということ)行動していけば、知らず知らずのうちに「仕返し」=「復讐」をしてしまう。
結局は、復讐はさらなる復讐しか生まない。傷つけた相手からは、何らかの攻撃を受ける可能性が高くなる。だから、世界中の戦争で、敵全体を「消滅」させるまで徹底的にやっつけるという残虐な行為が正当化(?)されたのだろう。そうしなければ、必ず生き残った敵は復讐してくるから。
そう考えると、平清盛が源頼朝、義経を情けをかけて助命したのは、ある意味日本的情緒的というか、世界的に見れば、何たる甘さということかもしれないが・・・。でも、ええやつや清盛!と感情的には僕は思う。結果はご存じの通り、復讐されてしまったのだが(やっぱり甘いのか・・・)。
町で中学生たちが意味もなく友達を殴るマネをしたりして脅かすことでくだらない力の誇示をしているのを見ると、人間の動物的な部分においてはそういう行動が基本なんだろうなと、改めて思う。何かにつけ、偉そうに振る舞ったり、威嚇していないと気が済まない。ケンカの話にみんな熱くなり、自分がどれだけ強いか知りたがる(from 尾崎豊「卒業」)。
だからこそ、「負ける」という行動こそが、人間的、あまりに人間的な行動なのだ。それができる人こそが、本当の意味での「人間的」な人間なのだと思う。
(意味ある場合に)あえて負けることができる人は、本当の意味では勝っている、と声を大にして言いたい。