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スペクトラムする思考_①

今朝、散歩していたら足元をカミキリムシが歩いていました。
特に足を止めるでもなく、何か感情を抱くでもなく、瞬間的に捉えたビジュアルのワンカットにすぎなかったんですが、数分後に

「そういえば、子供の頃カミキリムシを捕まえると"ギギギ"て鳴いてたな」
「あの時、素手で捕まえてたな」
「今は素手で掴むの無理だな・・・・」
「カミキリムシじゃなくてもセミとかコオロギとかも無理・・・」
「なんで大人になると虫がダメになるんだろ・・・」

と思考が連続した変化をしていく中で「なぜ?」という思いがふつふつ。

早速調べてみると2つの方向性が出てきました。
①本能的に異質なものを嫌悪してしまう
②苦い経験から虫全体が嫌悪対象に

なるほど、個人的に②は記憶がない。トラウマになっていて防衛本能で記憶を封印している可能性もゼロではないですが、多分、私的には②ではない。

①をもう少し掘ってみると、
"人間は本能的に自分と異質なものに対し嫌悪感を抱くようにできている。
 虫は人間と姿かたちがまったく違い、どんな動きをするか、どんな能力を
 持っているか、そして自分にどんな影響を与えるのか分からない。
 だから、虫という未知数の存在に対して嫌悪の感情を抱くことは本能として
 自然なこと。
 子供の頃、嫌悪感をあまり抱かないのは、虫に対する知識が乏しく、好奇心
 の方が勝るから。人は大人になるにつれて、虫についてのさまざまな知識を 
 身につける。毒をもった虫の危険性とか。
 結果、得体の知れない虫を敬遠しがちになる。"

なるほど。納得。
同時に『「益虫」など人間の営みに役立つ虫もいる』という事実もある。
夏を彩ってくれる蛍や花の受粉を助けてくれるミツバチの存在は、
「虫は嫌だ」という感情だけで一括りにして片付けるものではない。

こうなってくると思考はもう少しスペクトラムとして拡がる。
そう、対照は"虫"だけではないのだ。人種、性別、価値観やユニークさ、
人は、「自分と違うもの、異質な何か」に対して本能的に嫌悪感を持つ。
人によってはその対照や発動される範囲の違いはあると思うが。
じゃあ単純に「そういう考え(異質への嫌悪感)やめよう」とは思わない。
異質を受け入れることは自己否定と紙一重だから、苦痛を伴う。

1.異質に対して嫌悪感を持つ
2.嫌悪感を持っていることを理解する
3.どこに嫌悪感を持ったのか考える、理解する
4.異質の背景や存在意義を知る、考える
5.異質が存在することを受け入れる

感情や価値観はグラデーションなので。自分と対照の距離感は人それぞれでいいんじゃないかなと思います。
でも「存在を否定する」のはそれなりの覚悟が必要だと思います。ほとんどの物事には"賛否"があり、簡単に対立構造になってしまうから。
あくまでも"自分の物差し"として物事を測る尺度を持つ、程度の感覚。
全ての存在に平等に接するって私はできません。
でも、その存在を認識し、意義や背景を知り、自分なりに理解する。
そして自分なりの距離感を決める事で対照の世界の中でも私の世界の中でも
登場し合える関係性ではいられるんじゃないかなと思います。
これは「多様性」に対する自分の考え方、価値観に近いです。

「スペクトラムな思考の拡がり」
そのトリガーをくれた今朝の記憶の中のカミキリムシ。
すこしだけ親近感が湧いてきました。

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