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「親ガチャ」の背景にあるもの

両親からの温かい愛を経験していない者として「親ガチャ」という言葉はどうも好きになれない。でも、そう言いたくなる気持ちは痛いほどわかる。

好きになれないのは軽く聞こえるからかもしれない。若い世代が「親ガチャ」というポップ?な感じで表現するのは、もしかすると重く受け止めたくないからなのかもしれない。

実際、重く受け止めたところで何もいいことはない。かと言って軽く受け止めていてもずっと苦しいままだ。それじゃいったいどうすればいいのか?

それこそ運が悪かったとこの人生をあきらめるのか?

私にはできなかった。

あきらめてしまうとあまりにも自分自身がみじめになるから、意地でもあきらめないという往生際の悪さ、執念みたいなものはおかげさまでよく育った。

教育熱心な中流家庭に育ち、将来は医者か弁護士を切望されていた私たち兄弟。親戚一同は東大兄弟、官僚、GAFAにヘッドハンティングされるほどの逸材揃いで、親も子もお受験で頭がいっぱいだったな。

公立校に進む同級生とは話が合わず、塾の友達と話す内容は受験校の偏差値のことばかり…これじゃ子供らしい子供は育たないわけだ。

そういえばこんなことがあったな。
初めて「卒論」という存在を知った小学生だったあの日、私は母にこう言ったのだ、理想の親子の会話を求めて…

私「お母さん、大学に入ったら何百ページも卒論を書かないといけないんでしょう?大変そうだから私、大学行きたくないな~」
母「(吐き捨てるように)情けない。(がっかりした様子で)そんな子に育てた覚えはないのに」

あの瞬間、私の中でカチッと音がしたことを今でも覚えてている。母には二度と甘えたことを言ってはいけない。母をがっかりさせないように、母が喜んでくれるようなことを言わないと、私はここに居られない…

そう感じて「母に甘える」という扉の鍵を閉ざした。そしてその扉はいまも閉まったままだ。この人生でその扉が開くことはけっしてない。

私が思うに、こういった扉を開けることができる親子関係もあるが、ほとんどが無理なので、無理やり開けようとしても辛くなるだけだ。

世の中の心理学者やヒーラー、精神科医たちは、実体験することなく、データや文献に従って私のような人間を癒そうとするが、それは無理だ。

私のような幼少期を過ごした人間は、自分の存在意義が分からないし、スタート地点にすら立っておらず、自分を許したり愛したりポジティブ思考をする以前の問題なのだ。

続きは次回にします。ここまで読んでくださって、どうもありがとうございます。写真は大好きなオオルリアゲハ。青に惹かれる人生です。

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