カスミルのとしょかん(霞見る雑記)
皆様こんにちは。カスミルのとしょかんへようこそ。
ここでは、隔週で私のおすすめの本や作品をご紹介したり、時にはこっそり雑筆を残したりしていきます。忙しない日常の事は少しだけ忘れて、どうぞごゆっくりお楽しみくださいね。
さて。今年も梅雨の季節になりましたね。皆様雨はお好きですか?低気圧で体調が優れなかったり、湿度が高く蒸し暑かったり、あまり良い印象はないかもしれません。しかしそんな雨も、和歌の中では素敵に詠われていたりします。
そこで今回は本ではなく、雨に関する和歌を『古今和歌集』からいくつかご紹介したいと思います。
以下引用は新潮社から出ている『新潮日本古典集成 古今和歌集』を参照し、歌番号を併せて記載します。詳しい書誌情報等は最後にまとめて載せています。
○梅雨の歌
ではまずは梅雨の歌から。
寛平御時の后宮の歌合の歌
紀友則
153 五月雨にもの思ひをれば時鳥夜ふかく鳴きていづち行くらむ
(梅雨のうっとうしいこのごろ、もの思いに沈んでいると、その夜更け、時鳥が、悲しい声で鳴いて飛ぶ。いったいどこへ行くのだろう)
雨の降る中もの思いに沈んでいる詠作主体の静けさと、それを切り裂くような時鳥の鳴き声の対比がいいなあと個人的には思います。
時鳥の鳴くを聞きてよめる
貫之
160 五月雨の空もとどろに時鳥なにを憂しとか夜ただ鳴くらむ
(梅雨の夜空をとどろかせるばかりに鳴く時鳥は、いったい何をそんなに憂れわしく思って、あんなにひたすら夜を鳴くのであろうか。)
こちらも先程の歌同様「五月雨」と「時鳥」とがセットで詠まれています。空をとどろかせる程に鳴く時鳥の声、想像すると物悲しくなってきますね。
○涙と雨
次に、涙と雨がセットで詠まれているものをご紹介します。
寛平御時の后宮の歌合の歌
敏行朝臣
639 明けぬとてかへる道にはこきたれて雨も涙も振りそぼちつつ
(夜が明けたというので、女と別れた帰り道、雨も涙も、まるでしごきかけるように激しく振りに降って……。)
この歌が詠まれたのは通い婚の時代でしたので、夜が明けると男は女の家から帰って行きます。その帰り道の寂しさを雨に仮託したのではないかと思います。
題知らず
詠み人知らず
763 わが袖にまだき時雨の降りぬるは君が心に秋や来ぬらむ
(私の袖に、まだその季節でもないのにもう時雨が降ったのは、あの人の心に、秋がきたからなのだろう。)
切ない……!意中の方に飽き(秋)られたから私の袖に雨(涙)が降ったと言うのです。うまいこと言うなあ。切ないなあ。
○紅葉と雨
最後に、紅葉と雨がセットで詠まれたものをいくつかご紹介します。
題知らず
小野小町
782 いまはとてわが身時雨にふりぬれば言の葉さへにうつろひにけり
(今はもう、秋の時雨が降るとともに、私も古びてしまった。だから野山の木の葉ばかりか、あなたの言葉まで、すっかり衰えて頼み甲斐がなくなってしまいました。)
和歌では、時雨が「紅葉の色を変化させるもの」として詠まれる事があります。この歌もその例だと思います。雨によってすっかり変容してしまった心持ちのする木の葉と言の葉。
題知らず
詠み人知らず
820 時雨つつもみづるよりも言の葉の心の秋にあふぞわびしき
(時雨が降って、木々が紅葉に染められる秋も悲しいが、あの人の心に秋がきて、言葉に生気がなくなってゆくのに出会うのは、もっともっと悲しいことだ。)
切ない!あああ。雨が主題の歌ではないかもしれませんが、時雨が良い味出していますね。
今回は、『古今和歌集』に見られる雨を詠んだ歌をいくつか抜粋してご紹介致しました。
涙と併せて詠まれたり、意中の方の心変わりと共に詠まれたりと、少し切ない印象は拭えませんが、それによって表現に独特の趣が表れているようにも思えます。
これを機に、ひとつ歌集を手に取ってみられては如何でしょうか。
「生きてるって素敵でしょ?」
言葉と戯れている分にはね。
○書誌情報
『新潮日本古典集成 古今和歌集』(新潮社、昭和53年7月10日)参照。