手段なのか目的なのか?
生徒だった時(勝手に、生徒=小学校〜高校、学生=大学生以上 と指すことにしている)英語が得意だった。幼い頃から親友と二人で語学の塾に楽しく行っていたせいだと思う。
高校は理系だったが、大学進路決定の時、英語の先生に、光栄にも、語学大学に進学するよう勧められた。でも、そのころはすでに工学部に行くことを決意していたので、心の中では、「英語は手段」と、思っていた。
文章を書くこと。
これって、手段なのか目的なのか。
本来、それはもちろん人に何かを伝えるためだったり頭を整理するための「手段」だ。
けど、noteに毎日書くことは、いつの間にかほとんど「目的」になっている。
たまに、手段が目的にすり替わってしまっている みたいなフレーズを聞く。大抵そういう時は、それは間違っているということを指す。
でもそのことをよくよく考えてみると混乱してくる。
そうなってはいけないのか。むしろそうなるべきだったりしないのか。
例えば、職人さんは一つの手段を生涯かけて極め、ある意味それ自体が結果的に目的だったのではないかとさえ、思う。でも実は対峙しているのは手段であるモノやコトそのものではなく、より抽象的な何かに昇華される。
絵を描き続ける人も、何かを作り続ける人も、目的がいつしか無くなり、それ自体が研ぎ澄まされてくる、それって素敵なことではないだろうか。
あまりの目的志向というのは、どうなのとずっと思ってきた。
目的を持たなくちゃいけない、目的に向かって進め。
一見正しいことのようだけど・・・・何かモヤモヤする。
古い歌なんだけど、スピッツのフェイクファーという曲が昔好きで。
その歌詞のワンフレーズがずっと心に輝き続けている。
「憧れだけ引きずって、デタラメに道歩いた・・・」
好みの問題で言えば、こんな風に歩くことが好きだ。googleマップは毎日のように使うけど、本当は、無駄なく最短で、目的に着けばいいってものじゃないと心は思っているということだ。
なんとなく、文章を書いているのって目的なんだろうか手段なんだろうか?という小さな疑問から始まった今日の記事も、
書いているうちに、思わぬ方向へ、思わぬ記憶へと導かれた。
スピッツの歌詞なんて、書きはじめたときは一ミリも意識の中にはなかったのに。
書いているうちに次々と芋づる式に何かが出てきて、思わぬ結論に至ったりする、それはとても面白い。
こういう偶然の出会い=デタラメな道草 が好きで、文章を書いているのかもしれないなあ。
まあ、こんな不確定さはなかなか社会では受け入れられ難いのだろうけど。
ここまで書いて、ある単純なことに気づく。
つまりそれは、プロセス志向か、目的志向か、という違いなのだと。手段か、目的か、読んで字のごとく。
あるいは、現在志向か、未来志向か、とも言えるのかな。