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時間と空間〜ケルン大聖堂

ギーディオン的なタイトルになってしまった。いや、まさにそういう言葉を想起させるものだった。

ずっと以前の写真を見ていて思い出したので、あのインプレッションを書き留めておこうと思った。

偉大な建築。建築を教科書や図集や、雑誌で知るのではなく、「体験」として体の感覚で知るとき、私は偉大さというのを感じる。ケルン大聖堂はその一つだった。

誰が作った、どのようにして。そういうことを超越して、存在しているもの。

これまでに何度か、遭遇した建築とは、そのようなものだったし、そういう建築は一人のデザイナーや政治家の意図によって創られたのではなく、もちろんそれがひとつのきっかけにはなろうが、まさに時代に生み出され出現する、というものだと思う。

だから、「建築」と呼ぶものと、建物(たてもの)と呼ぶものの意味合いが私にとっては全く違う。


ケルン

初めて駅に着くと、目の前にそびえ立っていた。

近代的な駅と対照的な、真っ黒なMASSがそこだけ異質の空間を創り出していた。同じ空間の中に同時に存在する、違う時間軸だった。圧倒的な存在感は、街のランドマークであり、どこからでも見ることができる。

ケルン中央駅。

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私は、その皮一枚のような、空間と空間の境界線が不思議でならなかった。その境界線を超えると、するりと中世へと導かれるような。夢を見ているかのような。

夜、僧衣を着た人影がいくつか、大聖堂のまえを歩く。

ああ、これが、ドイツ・ゴシックなのだ、ということが身体に刻まれたと思う。それは、バーティカルな深い闇だった。ゴシックとは、垂直性そのものなのではないか・・・その垂直性が純粋に表現されている。中世の光と影。

色々な感覚が流れ込んでくる。今でも写真を見るとその時の感覚を思い出す。

いつまでも覚えている原体験・風景のひとつ。

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