時間のモデル。
先日から、シームレスな時間・・としつこく書いているんだけれど。
なんとなく今日、思ったことがある。
これはこの時間、これはこっちの時間、という風に、バラバラに断片になってしまった時間を、分断せずにシームレスにしていこう、ということだったのだけど、実はそれだけだと、そのイメージは、一次元。つまり、直線的な時間としての捉え方だなと思った。
子どもの過ごす時間を見ているともっともっと立体的な時間を過ごしているなと思う・・・いや、立体的というよりも無時間なのだけど。
一次元から、二次元的、三次元を超えて、無時間というもっと上の次元の時間というか。ちょっとうまく形容できない。
ただ、シームレスというのも直線的である限りは、有限的な時しか過ごせないのではないか。
ところで、ちょっと原典が引けないので記憶だけで書くけれど。
中世の人々(おそらくヨーロッパ←適当すぎて申し訳ない)の時間モデルを図にすると、円が描かれる。つまり、毎日が同じことの繰り返しで、永遠にそれは続く。今みたいに、進化するとか変化するということ自体がそこでは宗教上も禁じられていた。だから、新しい方法や新しい考え方は、タブーである。
もし現代人が時間のモデルを書くとしたらどうだろうか。直線で過去から未来へと線が引かれるだろうか。
わからないけど、その時間のモデルの描き方が変わる時、世界も変わる、そして、これからの個人の世界では、もしかしたら個人それぞれの時間のモデルがあって、そのモデルの世界を個人が体験することになるのでは、
なんてことを今日、ふと思った。