感情と記憶
個人的な領域で、音楽というのは、個人の特定の記憶や感情と結びついている。後になって曲を聞くと、その頃のことがよく思い出される。内的な部分で深く結びついている音楽というものがある。
音楽は形を持たない。だからこそ、内的なものとダイレクトに結びつきやすいのだと思っている。どのような容器、個人的な特定の内的な容器にも流れ込んでくる。音楽というのは、そういったあり様(よう)をしている。そういうふうに思う。
一方、形態を持つもの。形態を持つということは、社会性を帯びてくるものなのかもしれない。
(”空間”という意味で議論するならちょっと話が違ってくるのかもしれない)
物理的世界の中に存在するということは、内的なものではなくなるから。
目に見えてくるということは、他者とそれをより具体的な形で、共有できるということだから。
社会的な形態、つまり建築はその典型例である。
建築は、常に、社会的な意味、役割を背負ってきた。
それは個人的な芸術ではあり得ない。
つまり、個人的な形態ではあり得ない(住宅は、少し異質の意味を持ってくる)
それは、共通のビジョンであり、理念であり、それを言葉通り、形にしたものだ。それが、固定された形態に表されるということは、強烈なメッセージである。
共通認識。
中世や、近世は、今のように情報社会でもなく、比較的小さなコミュニティの中で人々は生きていたわけなので、共通の社会性というものがよりはっきりしていたことだろう。ほとんどの人が同じ常識を共有していたのだと思う。だからこそ、建築の形態も、「様式」といえるところにまで昇華されることができた。
しかし、今の世の中では、人々は、もっと多様な価値観を持つことができる。すぐ隣にいる人と同じ情報を持っているとは限らないし、同じ価値観であることはまずない。
今の時代の様式とは何か。
それは、後世になってみれば、きっとわかるのだろうが、
今現在これだ!という様式がないのには、一つには、人々の共通理念の揺らぎがあるからではないかと思う。
形態には、決まったストーリーがあった。共有される感情、ストーリーであえる。
それが今はない。
だからこそ、デザインの表現や、商品のコマーシャルなどには、「物語性」というものがより重要になってきているような気がしている。
ここまで、
ちょっととりあえず思いついたところまで、書いておく。
今から授業。