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自分というエネルギーの見つけ方
住んでいるマンションの工事が、ようやく終わりつつあって、窓の前面にあった足場の黒いアミアミのカバーが昨日取れた。
おおっ、思った以上に世界は明るい。空も、夜の街の光もすごく良く見える。朝も明るい。(とはいえ、まだ足場の鉄骨と、網入りの窓ガラスは視界を遮っている)
昨日までにいくつか、続けて記事を書いてみて思ったこと。
批判的な内容の記事は、いくらでも書くことができるけれど、後味があんまり良くないなあと、気が付いた。
例えば、自分を知るために自分と違うもの・・・政治とか、世の中とか、共感できなかった映画とか本とか・・・人とか
嫌だった出来事 それについてきっと無限に色々書くことができるんだろう。けど、その反対側には、常に、そこから見えてくるポジティブな反面があるはずだ、と思った。
嫌なことを吐き出すことも大切なのかもしれないけど、好きなこととか面白いものを見つけた時の方が何倍も気持ちが良い。
同じ出来事でもどちらにフォーカスするかで全く違ってくるのではないかと。
自分ではないエネルギーを削ぎ落としていこう、それが最近のバシャールの言葉らしいのだけど(別に最近ではなくずっと彼はそう言っているが)、何か嫌なもの、嫌いなものはもちろん、自分ではない不要なエネルギーだが、それに注意を向ければ向けるほど、そのエネルギーをまとってしまうというパラドックス。
好きではないものがあったなら、その反対側にある自分の好きなエネルギーを探す機会なのかもしれないなと。
例えば、この記事の写真の、窓から見える足場と網入りガラスの網とにフォーカスすれば、「視界を遮る」という現実があり、反対に、カバーが取れたことで視界が明るくなったことにフォーカスすれば、「視界が開ける」という現実がある。同じ出来事のどの側面に目を向けるかで真逆のことが起こってくる。
昨日までに味わったあまり後味のよろしくない感覚、で、その裏側にあったものについてちょっとまだ考えられていないけど。
とりあえず忘れないように、メモなのだ。