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そろそろ日本のデザインのはなしかな

やっとフランシス・デュブルイが咲いた!毎年のとっておきの楽しみである。そう、私のペンネームは大好きな薔薇の名前。

毎週、デザインに関する共通テーマ(上位概念)を取り上げて講義に取り入れている。
そろそろ、日本の話に入りたいなと思っている。
私にとって、「日本」というテーマは、最後に食べようと楽しみに取っておく大好物みたいなものだ。

そもそも、はるか昔、建築を学ぼうと思ったのも、日本の建築を学びたかったからだった。しかし、周り回って、西洋建築史の研究室に入り、ドイツ近代の先生についたのだ。なんともそれは、後々までも運命的ではあったし今は必然性さえ感じるが、日本建築への憧れは永遠に続くものとして私の中に残っている。

デザインという目で、敷居の高い学問領域からではなく、直接的に日本のかたちをみようとする時、日本の文化は、理論ではなくもっと別の奥深い領域が無限に広がっている感じがする。いや、それは建築でも同じだった。

直感的に日本のかたちについて触れてもいいのではないか。それは禁断の領域だろうか?アカデミックな領域からではなく、もっとラフに、デザインという隠れ蓑によって、それが可能な気がする。私が長年日本の建築や文化やそのかたち、つまりデザイン的な観点から見た時に感じるもの。

最初に思い浮かぶのは、やはり、伊勢神宮である。
それについてラフに語ることさえも、おこがましい感じがする。
しかし、この、おこがましい感情こそが、日本人である所以かなとも思う。世界中の宗教で同じように見られる、重要なものについて直接語ってはいけない、聖人を描いてはいけない、キリストの名を直接表現してはいけない、偶像破壊(イコノクラスム)・・・・などの宗教観や、歴史的出来事は、同じ根を持っているようにも思う。

伊勢神宮も、本殿を直接見ることはできない。
その意味について。

西洋で言えば、それは形而上学的な領域に関わることでもあるだろう。理性では、説明できないことかもしれない。しかし、日本人は、それをありのままに受け止めているようにも感じられる。理論上解き明かすのではなく、理解すること。受け止めること。そんな感じ。

「そんな感じ。」で、まとめてしまった。


子供が予想以上に早く起きてきた

思考分断。
んー、ここまでか。


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