建物の資産価値、その出発点
これは思考的には、続きの記事でもあります。
(1) 土地と家の資産価値について、思うこと
(2) 札幌で家を買うことに〜家の断熱のこと
しかし、つくづく思うのは。
家は買った時が一番資産価値が高い??
土地は別として、新築マンションにしても、建築物は買った時点での資産価値が一番高い、というのは、考えて見たらすごく違和感もある。
つまり、住宅は、基本的に、「劣化して行く」ということが、前提ということになる。
確かに形あるものは崩れるので・・・・
例えば、ドイツでは、古くなればなるほど価値が上がる、という考え方がある。
日本でも、もちろん、古い建築物は国宝、重要文化財になることもある。
しかし。現在の日本が、今後そういうものを生み出せるのか?とも、思う。
古くなっていくものを大切にする、
古くなっていくものに価値を見出す、
そういう、考え方が希薄になってきているように感じるから。
メンテナンス・フリーというのは結局その考え方の究極的なものではないだろうか。メンテナンスしなくても自発的エコシステムでメンテナンスフリー・・・なのではなくて、基本的には劣化したら替える。というのが軸なのだとすれば。
高級マンションで、床が”木のプリント”なのもその一端だ。本物の木は反る。品質が不揃い。だから嫌だ。プリントされたものなら全部同じ。反らない。メンテナンスが容易(劣化したら捨てればいい)。
けれど、本物の木の床は、だんだん変化していく。色も変われば、反ることもある、痩せていくこともある。手すりならば、ずっと人間がそこを触ることでツルツルになっていったり、一つ一つが違う風合いを持って変化していく。それを劣化ととらえるのではなくて、変化、味、それを育てていく。そういう考え方はかなり希薄になっている。(全くなくなったわけではないとしても)
スクラップアンドビルド
もう、すでにこの言葉も使い古された感さえある。
それに対抗する言葉として「持続的な社会」と言われて久しい
でも、やはりメインストリームは、スクラップアンドビルドの考え方であり、それは経済を回すという意味でも優先されていて、持続的社会というのは言葉だけに終わっているのではないかなと思う。
コンセプトの出発点
建物に限らず・・だけど、何かを作ったとする。
出発点が違えば、同じものでも全く違うものができる。
それはたとえ外装が全く同じに見えたとしても、分かる。
それが作品となれば一目瞭然。
例えば学生の作品(とか、レポート)だったとしても、本人が何を考えてそれを作ったか、他人からすれば明確に分かってしまう。それは技術的なものは関係なく。未熟なものであっても、一生懸命作ったもの、何を大事にしようとしているか?何を目指そうとしているか。それとも単に単位を取るためだけのものか、担当教員の機嫌を取るためのものか。人の真似をしたのか、全くやる気も興味もないけど強制されて作ったか、楽しかったか、嫌だったか・・・・全てが投影される。ほとんどセラピーみたいなものだと思う。別にそれはいいとか悪いとかでは、ない。
恐ろしいことに、作った本人が気づいていない部分も、はっきりと作品に現れてしまう。客観的に見れば驚くほどに。
だから作るものは、作り手を本当にストレートに表すものだと思う。
今の社会を作っているのは、やっぱり経済優先の社会だ。それは、どう隠しても、モノとして現れてきてしまう。
そうやってできていった街の風景は、そういう価値観が作り出しているのだと思う。
住んでいる人たちの価値観が街に現れる。
大きい規模でも、小さい規模でも、人の思考やイメージが形あるものを作っているというのを日々、痛感する。