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「女性性」を想い出すということ。

いやー。久々に、鳥肌立ちました。

最近、超ゆっくりと、山岸涼子の『日出処の天子』を読んでいるのだけど。まあ、これを読んでいて、自分の中にある何か自分が常に惹かれるポイントがやっぱり繋がっていくものなんだなと思ったのだが・・・

二巻の巻末にある、作者山岸涼子氏と作家氷室冴子氏の対談。これが・・・・・本編より面白いかもしれない。

いやはや、こういう会話。なかなか・・・・・・

この会話のタイトル「歴史はホームドラマの積み重ねです」と、あるように、ここでの一つのテーマは、対談の次の中に端的に現れている。

歴史はホームドラマの積み重ねです。男の人が、歴史はホームドラマじゃないと思っているのは、男の人の感覚ですね。女性はね、人間の日常生活の積み重ねが歴史になっているという感覚が強いから。(山岸先生)

私自身、建築史と言う歴史を少しは齧ったものの、そうか、そうなのかもしれない。と目から鱗だった。自分がいつも師にしていた質問や持っていた疑問や却下されたり面白がられたポイントはここの違いだったのかもしれないなと。

だから論文にはとてもなりにくかった、なぜなら論文の世界は男性論理の世界であるから。

この対談は90年代に交わされたものなのだけれど、およそ30年の間に時代は、より男性優位に傾いたのかもしれないなと思う。

自分が、工学部、建築業界、研究界、大学界・・・・などを経て、1番の違和感は、男性原理=つまり男性性の優位性に起因することが多々あったなと思う。

しかし。

妊娠してから、子育てに至る今まで、現在進行形で、そこにあるのは、「女性性」の再認識だった。そのことが、すっかりそれまで女性性を忘れて、無意識に否定していた自分と再度向き合うものすごいきっかけになっていることは確かだと思う。

このことは、先日書いた、「最高のものは、予定調和の中にない」に通じる。女性性は、予定調和とは真逆のものだと思う。

起承転結しないもの、理屈では語れないもの。予測不可能なもの。

そういった理屈ではないものについて、今の世の中は、なかなか受け入れられることがない。受け入れられないから、否定的に捉えてしまう。

女性性を想い出す必要がある。

それは、男性に備わっていないもの、という意味ではなく。

ユートピアの理論に通ずる。このことは、結局私は研究の中で表現したかったことだったが、男性原理に負けてしまって、表現することができなくて、今でも自分の中にくすぶっているテーマなのだなと少し感じた。

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