自分の言葉で語る
札幌は雪虫も飛んで、いよいよ秋深まり寒くなってきた。
3歳の子供と話していると、時々面白い表現に出くわすようになった。
彼なりに、自分の知っている少ない言葉で何かを純粋に表現しようとするので、なるほどなあと、思わされることが時々あり、ピカッときらめく星のように、それは輝く。そのピカリンは、心の奥に突き刺さる。
彼は自分の言葉で、表現することを覚えて行く。
長らく、日本語で歌詞がうたわれる音楽を聴くことが無かったが、最近少しハマっているバンドがあり。うーん、こういうの聴くの、何年ぶり(十何年ぶり?)か・・・
映像はちょっと奇妙でサイケデリックというか不思議なリズムの心地よい音楽で、歌詞もなかなかで。
(最近サウナにどハマりしているので知ったのだが、このビデオクリップを三歳の息子もお気に入りで。)
その中に、ドキッとする表現があり。
「打ち明けてよ 話がしたいわけじゃない・・・」(タイトル:あびばのんのん、by Tempalay)
と。
あああそうね。と思った。
大人になっておしゃべりばかりしていると、自分の言葉で語ることをだんだん忘れてくるのかなと思う。どこかできいた言葉、どこかで聞いた言い回し。意見。どこかで聞いた考え、どこかで見たようなもの。そんなものにあふれている。記憶に残らず。そんなおしゃべりもいいんだけど、昔から他愛のないおしゃべりがちょっと苦手・・・・である。
・・・まあ、女性特有の”月のリズム”というのもあるので、あまり深く気にしないようにしているが、
ここ数日何か虚しさを感じる。
バイオリズムとしては低調な時期ではある。
いろんな人と「おしゃべり」しても、ただ喋っているだけで話した気がしない。
そんな虚しさ。
昨日、同じ幼稚園のお母さんと、公園で子供を遊ばせながら話をしていて、そのおしゃべりは結果楽しかったのだが、以前の職を聞かれて、大学なんです。というと ああ、事務か何かですか、と言われたので、大学で教えていたんです。と答えた。
なぜかその時自分の中で小さく、「しまった」という感情が芽生え、何か罪悪感を感じる。あるいは微かなる疎外感。もしくは距離感。
変だねえ。
私は自分が何をしてきたのか、何を考えている人間なのか、人に知られるのがどうも、怖い部分があるのかと。知られるのが怖いというおかしな感情。
でも本当の気持ちは、そういうことを気にせず、思ったことを話し、書き、生きて行きたいのだ。と、そう思っているんだと。今までそうだったように。
しかし、そうね、noteは、何をいくら書いても気にならない場所では、ある。
共鳴してくれる人だけが読めば良いという仕組みだからか。
なんとなくおしゃべりして、本当の気持ちは隠しつつ、うまくやって行くこと。
そんな日々に時折虚しさと退屈を感じ。
少しの寂しさ?
いや、そうでもない。
でもおそらく、それに少しの恐怖を感じているのは自分だけであり、ありのままの自分で、自分の言葉で話すことは、やってみればそんなに恐れることではないのだろう。
それに、何かかすかにでも気を遣いながら人付き合いをやって行くのは、誰にとってもしんどいことだろう。