いちごのショートケーキに刺される
忘れてしまえば幸せなんだろうか、と何百回も何千回も、もしかすると何万回も思ったかもしれない。
でも人は嫌なことをそんなに簡単に忘れられるのだろうか。
とくに人格形成される幼少期にされた嫌なことを、そう簡単に忘れることなどできない。普通の人間なら。
私は人生の前半はずっと毒親の虐待と容姿の“至らなさ”から遠回しに、たまに直接的に見下し嘲笑してくる人の餌食となり地獄をなぜか死なずに生き続けていた。
私は手がかかる子どもではなかった、と毒親である母からよく言われた。大人しくて人を困らせることが嫌な、自己犠牲的な子どもだったことを自分でもよく覚えている。内気で悪く言えば陰気で口下手で、いいたいことが口からは出ない。だから文章で書くとなると途端に饒舌になって、ようやくニンゲンであると認識されたのかもしれない。ああこの人は意思を持っているのだ、と。
そう、私はずっと長い間ニンゲンではなかった。人々の言葉のゴミ箱の底に沈んだ塵よりも感触のない何かだった。塵があつまって圧縮されて形をもち、そこにいたんだと認識されるようになったのはたぶん、30歳を超えたあたりだったと思う。
毒親である母は常に不安感の強すぎる人で、その不安を他人にも味あわせ自分と同じ場所まで引きずり下ろして初めて安堵するような人だ。本人にはその自覚があまりない。だから周りの人々はうんざりして離れていく。残っているのは最初から母と同じような立場の人だけだ。
母は人を不幸にするのが大好きな人だった。自分の手で自分より不幸にして、安堵するのが癖になっているのだ。かわいそうがることも好きで、不幸な話題になると途端に目を輝かせる。そのくせ、何かあったら相手から感謝されることを目的として祝うことも忘れない。不幸に貶めながら祝い、与え、励まして自分のそばから離れないようにコントロールするのが大好きな人だ。でもそんな母の意図を読み取りやんわりと近づかないようにする人がいると、不快感をあらわにした。あんなにしてあげたのに、と家庭で延々と愚痴をもらした。
私は母の奴隷だった。普通の子よりも何倍も手がかかるきょうだいと家庭を顧みない父のストレスから、唯一、他人に優越感を抱くことができる成果を残す私をがんじがらめにして全ての楽しさから隔離した。楽しいことは何もないから勉強しなさい、容姿の悪いあなたが生き残るすべは学力を磨くしかないのだからといわれつづけたけど、それがどうしても正しいとは思えなかった。でもありとあらゆることが禁止されて、何をしようにもすべて母が納得し認めることしかしてはいけないとされた。異常な環境だった。
そのころから、私は机に向かうと高い確率で過呼吸を起こした。それは中学時代から今まで治っていない。でも過呼吸で苦しかろうが勉強を怠るとこらしめられたので、ぜえぜえいいながら机に向かった。それが良くなかったようで、例えば事務作業をするとき、何かを予約する時、書類をまとめなければならないとき、あのころの苦しさが蘇るのか過呼吸が発生して、いてもたってもいられなくなる。息の吸いすぎなのに唇は真っ青になり、手足が痺れ死体のように冷たくなる。
言葉で抗うと泣き叫ばれ「いつからそんな悪い子になっちゃったの」と泣き叫ばれ怒鳴られ続けた幼い私。それでも抗うと父に告げ口され、ベッドまでこられて殴られるのだ。だから私は諦めるしかなかったけれど、体は諦めきれなくて過呼吸が出る。今も、これからもずっとなのだろうか。
母は機嫌がよいときはよくショートケーキを買ってきた。いちごが乗っているシンプルなケーキだった。だから食べて食べて食べて、よく吐いた。食べて吐いているときだけが唯一母から逃げられる瞬間だった。そのまま吐き続けたかった。食べて吐いてを繰り返して何年もすぎればいいと思っていた。ショートケーキは一番好きで一番嫌いだった。とろけるようにおいしいクリームにコーティングされたケーキを切りながら思う。この包丁で首をかっ切ったらクリームと血がいい具合にまざって、私の体の中も甘くおいしくなるだろうかと。甘さなどどこにもなかった人生が少しでもむくわれるだろうかと。私という人間だけではだめだったからクリームがどうにか助けてくれないだろうかと。
そう思いながら、私は盛り上がったクリームの上空からフォークを突き刺した。