見出し画像

妖怪の拡大、境界の喪失、あいまいさの果たす役割

6月後半は、なぜか全身筋肉痛の夏風邪で寝込んでしまい(後にウイルス感染による流行性筋痛症と判明)、痛くてよく眠れない日々が続いた。熱もないのに結構朦朧としていたので、仕事の情報はカットして、全然関係ないトピックをひたすらインプットしていた。具体的には、妖怪の話、川崎殺傷事件の話、闇落ちするタイムラインの話など、主にダークサイド。病は気からとはよく言ったもので、全身痛い時は元気な話もロジカルな話も入って来ない。まだ残る痛みとともに揺蕩う浅い眠りの中で、ふと先の4つの話が繋がった気がしたので備忘的に書き出してみる。先ずは妖怪。

「妖怪の拡大」

最近すっかり妖怪話に執心の長男向けに、(まだ元気な時に発注した)水木しげるの妖怪大百科が届く(その後妖怪百物語も)。まだ家人の帰らない家で横たわって、妖怪の勉強を始めるのは中々シュールだ。読み進めていくうちに、妖怪の中には思い込みから生まれたのかなと類推できるものがあったり(例:火とり魔)、こりゃただの変な近所の爺さんのことじゃねえか(例:ももんじい)と思ってしまう例があったり、と興味深い。そもそも多くの妖怪が集う「山」に関しては、その昔「サンカ」と呼ばれる山の民がいた事実があり、その不思議な民を里から見て妖怪に見立てている(例:やまんば)ようにも読み取れる。今なお残る物語は歴史の勝者か表舞台で文字を自在に操った側の物語であり、その文字を読んでいる身としては別の側面が常にある事を意識したい。例えば各地の鬼伝説は、大陸から渡ってきた外来民という説もある。また一方で、災害や事故などが起こる自然の中にも妖怪は潜むとされるし(例:海坊主)、人の悪意も妖怪に分類されている(例:もののけ)。こう言った妖怪が生まれる背景には、今私が見えていないものがありそうな気がして、水木しげる氏が参考にした書を当たる事にする。その中の1冊、柳田国男の妖怪談義がkindleで手に入った。有名な(?)「黄昏時」の解説が何度か出てくる。夕暮れの時間は、往き交う人の顔が見えなくなる「誰ぞ彼」の時間。同時にこの時間帯は逢魔時とも言われる。見知らぬ人は、妖怪に近い存在というわけだ。先の鬼の例を見ても、妖怪は外の世界の何か、という事は確かだろう。では何の外か。これは地方へ旅行すると今でも感じる。いわゆるムラに当たるもの。旅行者である自分は部外者である。私は秘境の旅行好きだが、私自身が妖怪の立ち位置にいた事が改めてわかった。
水木しげる氏は、便利なものが増え、暗がりが減った近代では、妖怪も減ったと解釈する。しかし、本当は妖怪が減ったのではなく、逆に妖怪が増え過ぎてそう見なされなくなった側面もあると思う。昔で言う妖怪に当たる部外者も、今は情報が行き渡るからそうは見なされない。例えばポケモンGOで人の家の軒先に集う人たちは、なぜ集まっているのかは凡そ分かる。分かるのでそれ以上考えることはあまり無いが、よく考えると、部外者が軒先に集まって、逢魔時にはスマホの画面で顔が浮かび上がっているのである。これは現代の妖怪に分類されておかしくないだろう(妖怪「スマホ火」と命名しよう)。
同様に人の流動性の高い東京神奈川では、ムラ社会が解体されて久しい。マンションの隣人が誰かわからない。この特殊性をサスペンスに仕立てるストーリーはありがちだが、これは妖怪の話でもある。満員電車で見ず知らずの会社員同士が密着する状況。これもまた妖怪の話に読み替える事が出来る。痴漢はもののけの部類のあからさまな妖怪だが、悪さをしない妖怪だっていくらでもいる。満員電車に乗る私は、ぎゅうぎゅうに密着せざるを得ない隣のあなたにとって(それ以上の害はないが)妖怪だ。あまりに日常的に起こっているので、妖怪と認識できないだけである。
ここでの問題は、私たちは妖怪を認識するセンスを知らないうちに損なっているという事実である。言い方を変えれば、本来リスクが高い部外者が含まれる群に対して、警戒する事が出来なくなっている。そもそも満員電車を恐れていてはたちまち通勤できないだろう。痴漢がいるリスクは多くの場合黙認される。こういった世界では、時として自分も警戒される側に回る。自分が痛くない腹を探られたくないばかりに、自分も警戒しなくなるのだろうか。相互不可侵の精神を共同意識として持つ。マナーにも変わっていく。性善説に基づいた良い世界に見えなくもないが、ただ妖怪の世界が拡大されただけ。自分も妖怪の一種に見られ、近づく世界に知らないうちに踏み込んでいるだけなのだ。

「境界の喪失」

相互に部外者という意味で、誰もが妖怪になった世界。そこにはウチとソトの境界が無くなっている。厳密には、境界は自分と自分以外の境目しか無くなっている。自分は自分にとって妖怪でないことは、辛うじてわかる。その状況から脱したくて、社会での繋がりが求める(もしくは自分で自分が信じられなくなって、他者に確認するために繋がりを求めるのかも知れない)。自分と向き合うと言えば聞こえは良い。しかし、気質として善か否かは人による。そして人は「原理的に」善でない。生存本能が恐怖に支配されているというメカニズム。これを解説したコラムが「闇落ちするタイムライン(https://note.mu/fladdict/n/n2984690f10a0)」であった。
人の中に潜む本能としての恐怖が、社会システムとして先鋭化され、ネットの中で更に研ぎ澄まされて、そこで語られる言論が闇に堕ちる。部外者を妖怪とみなす文化は、この本能の仕組みを本質的に理解しているかのようだ。自分の中のもののけをメタ認知できるかが、こちらの世界に踏み止まる最後の砦。そして踏み止まるべき足場が、昔はムラ、今は辛うじて家族、もしくは新たなコミュニティ。妖怪の世界が自分の中にもある事を知っておきたい。

「川崎殺傷事件批判」

この事件で、犯行後に自殺を図った犯人に対して「死ぬなら一人で」という批判がネットを中心に広がった。一方でこの拡散を止める呼びかけもなされている。「一人で死ね」という究極の分断の一撃が、人からどう見られようと自分は妖怪でないとギリギリで踏み止まる誰かを、本当に妖怪にするということだ。自分の周りのコミュニティがインフラとして機能している人は、その分断のインパクトに気が付かないし、理解できない。いじめられっ子が学校コミュニティに縛られるように、そこには当事者にしか見えない価値がある。生存権に近いものなのかも知れない。


昔、それこそ100年くらい前に比べて、あいまいなものは格段に無くなった。物理的に夜は明るくなった。科学が一般常識となり、まず最初に見間違いを出自にする妖怪たちは次々と斃れていった。その後、自然現象を出自にするものも無くなっていった。別コミュニティを出自にするものらは、前述の様に一般化していった。しかし最後まで説明のつかないあいまいなもの、それは自分の心かも知れない。その心を闇に堕とさない仕組みは社会との繋がりという、これもあいまいなもので説明される。
とここまで考えて、あいまいなものを明らかにし、線引きをしていく事自体が、本物の妖怪を世に出している原因なのではないかと思い当たった。日本人の判断の留保は、国際社会では通用しないと昔から言われていた。でも一方で、そのあいまいな状態をキープする事がセーフティネットとしても機能している。尖閣諸島問題に近い。あまりにあいまい過ぎるのは物事が混迷しているだけだが、100%明確にする事もまた、誰かの生きにくさを助長したり、社会から明確に分断する事になるのではなかろうか。社会問題の構造化を行うに当たって、前提として考えなければならない命題と言える。かく言う私も、明確に切り分けられたらたぶん息苦しくなってしまう側の人間だと思うから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?