ムーンライト・シャドウ よしもとばなな
彼はなにこれ、と笑いはしたが決して無造作にではなく、大切そうに手のひらからハンカチに包んだ。その年頃の男の子にはあまりにも不似合いな行動なので、私はとてもびっくりした。
恋なんて、そんなものだ。
そんな気がしたなんて、後からいくらでも言える乙女の感傷だ。しかし私は言う。そんな気がしました。
なるべくいたずらにひまな時間を作らないように必死で努力した。それはそれは不毛な努力だ。本当はしたいことなんて、なにひとつありはしなかった。等に会いたかった。しかし、私はどうしてもなにか手や体や心を動かし続けなくてはいけない気がした。そしてこの努力を無心に続ければいつかはなにか突破口につながると思いたかった。
白い土手がどこまでもぼんやりと続き、青い夜明けのもやで街の景色にかすみがかかる。澄んでぴりぴりと冷たい空気の中でそうして立っていると、自分がほんの少し「死」に近い所にいるように思えた。実際、そのきびしく透明なひどく淋しい光景の中でだけ、今の私は楽に呼吸ができた。自虐。ではない。なぜなら、その時間がないと私はどうしてかその後のその日一日をうまくやれる自信が全く持てなかったからだ。かなり切実に、今の私にはその光景が必要だった。
ぼんやりと青い空気の底に沈む淡くかすんだ街並みを見ていた。ざあざあと力強く川音が響き、なにもかもを白く泡立てて押し流してゆく。
あまりにも平然と彼女が言うので、私は怒れなかったし、自分までなんていうことのないことだと思えてしまった。
あまりにも彼女は知的で冴えた瞳をしていて、まるでこの世の悲しみも喜びもすべてのみ込んだ後のような深い深い表情を持っていた。そのために、しんと張りつめた空気が彼女と共にあった。
「まだ秘密。でも必ず教える。お茶をくれたから。」
そう言って彼女が笑うので、私はなんとなくその先を聞きそびれてしまった。朝が近づいてくる気配が世界中を満たす。光が空の青に溶けて、かすかな輝きが空気の層を白く照らす。
いよいよ眠い頭の中にうららというその不思議な女性の印象だけが陽ざしの中でまぶしくふちどられて刻まれた朝だった。
そうして二人は心の傷を茶化して遊ぶことくらいしか、なすすべがなかった。
等と柊は性格も全然違ったが、それでも育ちの良さからくるこういう、てらいも下心もない親切さをどちらも自然に身につけていた。まるで、鈴をそっとハンカチに包むような親切さだった。
白い校舎の窓ガラスに暮れはじめた真冬の空が、透明に映っていた。一段一段ふんでゆく黒い靴とハイソックス、自分の制服のスカートのすそをおぼえている。
人との間にとったスタンスを決して崩さないくせに、反射的に親切が口をついて出るこの冷たさと素直さに、私はいつでも透明な気持ちになった。それは透んだ感激だった。その感じを私は今、生々しく思い出してしまった。なつかしかった。苦しかった。
このまま、こわれてしまいたいと思う。
私は、自分の心の中にあるどこかがずっと昔から彼女と知り合いで、再会をなつかしみ喜んで泣いているように思えた。
真昼にこうしてふと思い出しても、泣かずにいられるようになったことが、妙にむなしい。果てしなく遠い彼が、ますます遠くへ行ってしまうように思える。
なにもまっすぐに心に入ってこなかった。思い出が思い出としてちゃんと見えるところまで、一日も早く逃げ切りたかった。でも、走っても走ってもその道のりは遠く、先のことを考えるとぞっとするくらい淋しかった。
私の部屋からは、ちょうど家の前の門と庭がよく見える。庭木や花が青い空気の中でさわさわ揺れて、パノラマのように平たい色彩で広がって見えた。きれいだった。夜明けの青の中で何もかもがこんなに浄化されて見えることを私は最近知った。
「風邪はね。」うららは少しまつげをふせて淡々と言った。「今がいちばんつらいんだよ。死ぬよりつらいかもね。でも、これ以上の以上のつらさは多分ないんだよ。その人の限界は変わらないからよ。またくりかえし風邪をひいて、今と同じことがおそってくることはあるかもしんないけど、本人さえしっかりしていれば生涯ね、ない。そういう、しくみだから。そう思うと、こういうのがまたあるのかっていやんなっちゃうっていう見方もあるけど、こんなもんかっていうのもあってつらくなくなんない?」そして、笑って私を見た。
私は黙って目を丸くした。この人は本当に風邪についてだけ言ってるんだろうか。なにを言ってるんだろうか。ーー夜明けの青と熱がすべてをかすませて、私には夢とうつつの境目がよくわからなかった。ただ言葉を心に刻みながら、話すうららの前髪がさやさや吹く風に揺れるのをぼんやり見つめていた。
たとえば、今は昨日よりも少し楽に息ができる。また息もできない孤独な夜が来るに違いないことは確かに私をうんざりさせる。このくりかえしが人生だと思うとぞっとしてしまう。それでも、突然息が楽になる瞬間が確実にあるということのすごさが私をときめかせる。度々、ときめかせる。
彼のこういう幼い思いやりが自分に向けられたのは初めてだった。もっと、クールなことが好きな子かと思っていたから、あまり意外でかえって心に素直に入ってきた。
「確かにワタシはまだ若いですし、セーラー服着てないと泣きそうなくらい頼りになんないですけど、困った時は人類きょうだいでしょ?ワタシは君のことをひとつふとんに入ってもいいくらい好きなんだから。」
彼は全く真顔で、なにも変なことを言っているつもりがないらしかったので、変わってるなあ、と思ってこらえ切れず私は笑った。そして心から言った。
「そうする。ほんと、そうするわ。ありがとう。本当にありがとう。」
しんしんと凍りつくような、月影が空にはりつくような夜明けだった。私の走る足音が静かな青に響き渡り、ひそやかに吸い込まれて街に消えていった。
橋には、うららが立っていた。私がたどり着くと、ポケットに手を入れ、マフラーに半分顔を埋めたまま、きらきらした瞳で笑って、
「おはよう。」
と言った。
星がひとつ二つ、消えそうにほの白く、ちらちらと青磁の空にまたたいていた。それは、ぞっとするくらい美しい光景だった。川音は激しく、空気は澄んでいる。
「体まで青に溶けそうに青いね。」
手を空にかざして、うららが言った。
なつかしい等、そのなつかしい肩や腕の線のすべてを目に焼きつけたかった。この淡い景色も、ほほをつたう涙の熱さも、すべてを記憶したいと私は切望した。彼の腕が描くラインが残像になって空に映る。それでも彼はゆっくり薄れ、消えていった。涙の中で私はそれを見つめた。
朝の光が髪をすかして、そう言って笑ううららは静かな彫刻のようにゆるぎなかった。
あの幼い私の面影だけが、いつもあなたのそばにいることを、切に祈る。
手を振ってくれて、ありがとう。何度も、何度も手を振ってくれたこと、ありがとう。