ミンダナオ紛争を知ろう 最終回
第1弾・2弾と続いた、ミンダナオ紛争を知ろうも今回で最終回となります!これまでは植民地時代までのミンダナオの概要、各政権のミンダナオ統治政策について説明してきました。今回はミンダナオ紛争における「下からの平和構築」の存在についてご紹介することで、皆さんと一緒にミンダナオにおける平和構築の未来を考え、学びの中で得た気づきを共有する形で「ミンダナオ紛争を知ろう」シリーズを締めたいと思います。
下からの平和構築とは?
ミンダナオ紛争の文脈では……
第2回で説明されたような国レベルでの制度構築は「上から」の平和構築に当てはまります。対して、「下からの平和構築」とはその国家の下にある人々による平和構築のことを指します。通常は、市民社会組織など草の根レベルでの実践が取り上げられることが多いのですが、今回のミンダナオ紛争においては、首長による実践が平和構築のカギとなるため、町レベルでの「下からの平和構築」の事例を2つ紹介したいと思います。
事例1 ダトゥ・パグラス町
町の成立と社会状況
ダトゥ・パグラス町が位置するのは、ミンダナオ島中央部、かつては15世紀~米国統治期までプアヤン王国という国が成立していた場所です。ここでは、伝統的にダトゥによる政治が実施されていましたが、米統治期下のダトゥは、新たな制度の下で植民地政府を仲介する役割を与えられることになりました。
その中で、ブルアンと呼ばれる町の3代目の行政区長(町長)となったのが、この事例のキーとなる一族、パグラス一族のダトゥ・ハッジ・パグラス・イブラヒム(1世)でした。独立後、このブルアン町は、政府によるキリスト教徒移住政策の継続によって人口増加・民族構成の変化が生じたことで、最終的に3つの町に分割されることになります。そのうちの1つが、ダトゥ・パグラス町です。1973年のマルコス政権時に、ダトゥ・ハッジ・パグラス・イブラヒム(1世)の名前を取って分割・創設されました。以降、この町の町長はパグラス一族の人物が勤め続けることになります。
当時、ダトゥ・パグラス一帯は「悪名高い紛争の地」として知られるほど治安が悪く、強盗・誘拐などの犯罪、有力クラン間の政治的暴力が頻発していました。住民のほとんどがMILFの兵士・支持者・元兵士であり、一般市民の夜間外出は死を意味するほどだったのです。
パグラス3世の登場
そんなダトゥ・パグラス町の治安改善に乗り出したのが、政治的暴力によって殺害されたパグラス2世の後継者として町長に就任したパグラス3世です。パグラス3世は、町長就任前から暴力による覇権争いにかまけて人々の生活保障を怠ってきた伝統的首長/有力クランのリーダーと統治制度・規範の在り方を批判していました。そして、首長就任後にはパグラス2世の仇討ちとして伝統的慣行である報復殺人を実行しないことでクラン間の暴力の連鎖を止め、対話を重視し、人々の生活向上・平和の実現に取り組む、新たなリーダーの在り方を打ち出します。
プランテーション事業の実施
人々の生計向上が治安の安定につながると考えたパグラス3世は、水源に恵まれた肥沃な土地であるという町の特徴を生かし、プランテーション事業の設立を計画します。彼は、悪名高いダトゥ・パグラス町で治安と労働力を確保し、プランテーション企業を誘致・発展させるために様々なアクターと協力関係を構築しました。以下ではそのうちの3つのアクターを紹介します。
1.政府
この計画の実施が具体化された1996年頃には、政府とMNLFが最終的和平合意を締結しました。この和平の気運を国内外に示したい当時の大統領、ラモス大統領は、パグラス一族と友好的な交流があり、政府の方針と一致したパグラスの新事業設立を承認、経済開発に向けたコミットメントを得ることに成功します。
2.MILF
また、多くのMILF兵士と支持者が暮らしているという町の性質上、政府のみならずMILFにもプランテーション事業への理解・協力を得ることが必須条件として存在しましたが、パグラス3世がMILF議長と親族関係にあったことで円滑に事業承認を得ることに成功、治安と労働力の確保の土壌が整いました。
3.ARMM政府
次に、事業拡大を目指す投資家・事業主側を誘致するために、パグラス3世はARMM政府の高官による支援を受け、免税など投資家・事業主側に有利な経済条件を整えました。
このほかにも、パグラス3世のプランテーション事業は、様々なアクターによる後押しを受けて発展し、世界規模のバナナ・プランテーション企業が事業を展開、ダトゥ・パグラス町で暮らす人々に様々な直接的・波及的効果をもたらしました。
パグラス3世の平和構築の成果
バナナ・プランテーション事業は、順調に生産量・面積を拡大し、徹底的な品質管理によって国際基準のバナナの海外輸出が盛んにおこなわれるようになります。このことは単に雇用の機会を増やし、地域経済の活性化をもたらしただけでなく、元兵士などこれまで就業経験のないムスリム従業員にも、強固さと柔軟さを使い分けた文化的配慮を行う新たな労働管理を導入したことで、宗教などの異文化間の理解促進や緊張緩和の機会がもたらしました。
パグラス3世の思惑どおりに、人々の生活の質の向上と治安回復が達成されたのです。
また、波及効果として、海外の企業との協働など民間セクターでの平和を誘因する経済活動が進行しており、JICAなど海外援助機関がそれを後押し、民間投資による政府開発援助を呼び込むという平和構築の動きを作り出す形となりました。
ダトゥ・パグラス町の今
パグラス3世による取り組みで、ダトゥ・パグラス町での犯罪件数は激減、ARMM政府内で唯一の選挙管理委員会が軍を配置しなくても良い町となるなど人々の生活と治安を大きく改善しました。これは「パグラスの奇跡」と呼ばれています。
その後も、パグラス一族の人々によって廃棄物管理や保健医療などの公共サービスの向上、周辺の町自治体との開発協力など、パグラス3世によって形成された平和構築の取組は、彼が亡くなった後も、一族の人々によって伝統的権威の継続性と新規性が融合した形で継続・発展していきました。ミンダナオの平和を願う人々との協力を通じて、今日まで積極的な平和構築が実施されています。
事例2:ウピ町
次は、ダトゥ・パグラス町とはまた異なる下からの平和構築の事例として、ウピ町の事例について紹介したいと思います。長くなってきましたが、前例との違いや共通点を探しながら読んでみてくださいね。
ウピ町の成立と社会状況
マギンダナオ州南西部に位置するウピ町は、1955年にマグサイサイ政権下で成立しました。この町では、ムスリム、キリスト教徒移住者、非ムスリムの先住民族(ティルライ)がほぼ同等の割合で混在する民族構成が形成されています。このような民族構成は、ティルライ人の社会に米国統治下でキリスト教徒が移住、第二次世界大戦後にマギンダナオ人(ムスリム)が増加する形で形成されたものであり、外部からの権力掌握を目指す武装勢力が進行するなど、異民族間の関係は決して良好とはいいがたいものでした。加えて、1980年代には誘拐・強盗・殺人が頻繁に発生するようになり、ウピは異民族間紛争と無秩序の町となってしまいました。
ラモン・ピアンの登場
このようなウピ町の治安改善に乗り出したのが、伝統的首長であるシンスアット一族が町長を務めてきた慣例に風穴を開ける形で、2001年に選出された先住民族(ティルライ)出身のラモン・ピアン町長です。
ティルライとは、ミンダナオの18の先住民民族グループの1つで、伝統的にウピ周辺に位置するティルライ高地で生活してきた人々です。独自の社会・文化を形成していましたが、米統治期以降、近代化の名の下でフィリピン社会への統合を余儀なくされました。ラモン・ピアンは米統治期以降の近代化のなかで高等教育を受けた数少ないティルライ人エリートであり、大学の付属高校の学長や副町長を務めるなど、社会的地位・信頼・期待の高い人物でした。
当時のウピ町では選挙においてシンスアット一族による政治的暴力が横行していましたが、民衆たちがピアンへの熱い支持から結束、「人民革命」的に選挙の投票から開票まで政治的暴力が生じないように活動し続けた結果、無事ピアン政権が誕生したのです。期待を一身に受けたピアンは、合議制で平和的な紛争解決、格差のない統治を行う道徳的リーダーが主導する「チムアイ制度」と呼ばれるティルライ固有の伝統的統治制度のような統治を実施します。
ピアンの平和構築
まず、ピアンは市民の支持によって自身が町長になったことから、民衆の政治参加の重要性を感じ、各委員会の再編や市民社会組織の認定制度の整備と支援、行政情報の透明化、市民との討議の場づくりなど、市民が町行政に参加できる機会を複数設けました。
また、過去に三民族間の悲惨な紛争・暴力を見てきた経験から、異文化間の調和、紛争解決プロセスの実施では「対話」を重視、町長を委員長とする町長委員会の下で、裁判のように問題の申立と討議と対話による調停を行う新たな制度を構築します。加えて、ラジオ局を開設し、町長委員会の存在のほか、各民族の宗教・伝統に関する内容・ニュース・村落行事など様々な情報を住民たちに共有する仕組みを作りました。
さらに、徴税制度の整備・農業生産を通じた経済開発の牽引・公共サービスの提供を実施、インフラ整備などが町の中心部に偏りすぎることのないよう、周縁部にもバランスよく、公平に資源を配布しました。
平和構築の成果
町長委員会の存在は、国家警察の権力が末端社会まで及んでいないミンダナオにおいて、地方自治体(町)が国家の治安・司法当局よりも紛争解決の仲裁者且つ主体として権威を持ち、そのリーダーである町長が正統性と信頼を高めていくことにつながりました。
また、生活の質が向上・経済活動が活性化したことで、住民やビジネスセクターは納税の価値を強く実感、その結果、ピアン町自治体の自己歳入が増加し、さらなる公共サービスの向上・治安回復につながるという好循環を生み出すことに成功します。
ピアン町長の取組は、町内のみならず、国際援助機関からも高く評価され、信頼を獲得したことがARMM全体での海外援助の獲得につながるなど、域内での水平的な関係を構築・強化を実現しました。さらに、ピアン町長はアキノⅢ政権下での国家とMILFの和平プロセスに、政府側交渉団員を務めることで関与するなど垂直的な関係も構築・強化しました。
このようなつながりの強化は、これまでの伝統的クランが用いた暴力的手段ではなく、パンサモロ域内における多様なステークホルダーとの対話・協力によって、新たな価値・規範に基づく広範な「公共圏」を作り出したという点で非常に大きな意味を持つと言えます。
二つの事例が示す平和構築の可能性
さて、ここまでにダトゥ・パグラス町とウピ町というミンダナオにおける町レベルの「下からの平和構築」の事例を紹介してきました。2つの事例には以下のような違いと共通点があります。皆さんは気づきましたか?
違い:町長の就任以前の背景
共通点:平和構築のプロセス
これらから分かるのは、伝統的首長であろうが、非伝統的首長であろうが、紛争と暴力の蔓延するミンダナオにおいて、これまでの「暴力の文化」にメスを入れ、多様なステークホルダーとのかかわりの中で新たな価値・規範を創造、特定の一族間・民族間の「親密性」を包摂し、「公共性・公益性」を保つことで、軍事力以外の正当性をもった統治を実施することが可能であること。これまで対立や癒着を繰り返し、暴力と紛争を過激・複雑化させてきた国家ークラン(地方首長)ーイスラーム系反政府武装勢力の3者は、「対話」を通じて平和構築に向けて協調関係を築くことが可能であることです。
これからの平和構築
これまでのミンダナオでは、米国主導の自由民主化制度の構築が行われて以来、リベラルな平和構築が進められてきました。つまり、脱植民地国家は、自由民主的でリベラルな近代国家を目指すことで、平和で安定的な国家を作り出すことができると考えられてきたのです。しかし、この手法ではミンダナオにおける紛争と暴力を100年以上止めることができませんでした。
その一因として考えられるのが、フィリピン社会にはリベラルな規範に基づいた国家建設という手法自体が適合していなかったということです。考えてみれば、異なる文化・性質を持つ国々が、まったく同じ方法・制度で国をつくっていくことは難しいですよね。
実際、フィリピン、ミンダナオでは、中央集権・法の支配・説明責任を伴った統治機構など「国家」が制度を十分に機能させる条件が整っていません。そこで、注目されるのがこれまで述べてきた、町長たち主導の「下からの平和構築」の在り方です。彼らは、「リベラル」な国家の制度が及ばない範囲で、伝統を活用・再編しながら地域の平和的な統治を実現してきた存在であり、国や地域の文化・性質をしっかりと把握し、それらに適切に対処してきました。もちろん、このような町長たちの事例はまだまだレアケースであり、実現は容易ではありませんが、彼らの平和構築の形が、従来の平和構築におけるズレをただし、ミンダナオにおけるポスト・リベラル平和構築の在り方のヒントとなっていくと考えられるのです。
最後に
いかかだったでしょうか?
第1弾から学んできたようにミンダナオ紛争は決して、「キリスト教徒VSムスリム」の単純な宗教紛争ではありません。様々なステークホルダーが複雑に絡み合って形成されてきた紛争と暴力を、魔法のように一気に解決する手段はなく、ステークホルダー同士を丁寧に繋いでいく平和構築・支援が必要といえます。
さて、私たちにとって、ミンダナオ紛争について学ぶことは、単に知識を深めるだけでなく、「物事を単純化して見ない」「既存の枠組みを疑ってみる」といった新たなものの見方に対する気づきを得る機会にもなりました。
ここまで読んでくださった皆さんにとっても、この「ミンダナオ紛争を知ろう」シリーズが、ミンダナオについての知識を深めるだけでなく、それぞれの気づきにつながる機会となっていればと思います。
出典
谷口美代子『平和構築を支援する ミンダナオ紛争と和平への道』、名古屋大学出版、2020年。