一度だけ父に怒鳴られた話
僕の父は絵に描いたような穏やかな人だった。
丈夫な体を持ち、欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている。
アメニモマケズ的な要素が満載の男だった。
明るく、優しく、楽しく、バイクと車が大好きな、僕の大好きな父。
僕がなりたい像そのものだ。
小学生の頃、親戚一同と旅行に行った。
我が家は親戚と仲が良く、年に一回のこの親戚旅行は僕にとって一大イベントだった。
僕は親戚の中で最年少だったため、旅行中かなり甘やかされる存在だった。
行きたいと言えば行けたし、食べたいと言えば食べさせてもらえた。
場所は定かではないが、山沿いの湖を親戚一同で散策しているとゴーカートがあった。
免許も取れない年齢のその頃の僕たちには、ゴーカートは唯一運転できる自動車だ。
例の如く「乗りたい」とねだった僕は、歳の近い従兄弟たちとゴーカートに乗った。
赤、青、緑、カラフルに装飾されたゴーカートは古びていても輝いていて、僕は無敵だった。
係員さんのヨーイドンを合図に僕たちは走り出す。
壁にぶつかろうが、従兄弟のカートにぶつかろうがお構いなし。
僕たちは今までの人生で一番速く、自分の力で動いた。
運転にも慣れてきた頃、ゴーカートは終わりを告げる。コースを二周したら停車位置に停まっておしまいだ。
僕は「終わりたくないなあ」と思いながらゴールを目指した。
ゴール手前では係員のおっちゃんが『ここだよ』と言わんばかりに大きく手を振っている。
そこがゴールな事くらいは子どもの僕にだって見れば分かる。
僕はしぶしぶゴーカートを停めようとしたが、ゴーカートが止まらない。
僕は走り方は知っていても止まり方は知らなかったのだ。
大人になった今でもそうかもしれない。
止まらないゴーカートと手を振るおっちゃんの距離はどんどん近付いていく。
僕はそのままおっちゃんを轢いた。
今思えば何故止まらないと知りながらおっちゃんの方へ向かってしまったのか分からない。
止めてくれると思ったのかもしれない。
しかしおっちゃんに成す術は無かった。
僕は、色んな事を考えた。
「止まり方教わったっけ…?」
「壊れてるんじゃない…?」
「俺が悪いのか…?」
どれもおっちゃんを轢く正当な理由にはならず、込み上げた罪悪感で僕は泣いた。
(おっちゃんには謝った)
そんな僕をよそ目に従兄弟たちはゴーカートに大喜びで『もう一回乗りたい』などとほざいている。あの場で泣いていたのは僕とおっちゃんの心だけだ。
従兄弟たちは二回目のゴーカートに向かう。
僕は親戚に「颯太も乗ってくる?」と聞かれたが、断った。
また人を轢いてしまうのが怖かったし、泣きながらゴーカートに乗る子どもは居ないし、何より楽しくなくなったから。
その瞬間父が静かに怒鳴った。
「いいから乗ってこい」
なぜ…?
おっちゃんを轢いて、楽しくなくて、免許返納を考えながら泣いている僕が何故二度目のゴーカートに…?エヴァンゲリオンかよ。
父はそれ以上口を開く事はなく、僕は泣きながらさっきおっちゃんを轢いた殺戮兵器に乗った。
二度目のゴーカートはもちろん無事に停車し、何事もなく終了した。
僕の旅行は台無しだった。
普段全く怒らない優しい父が何故僕をあの日に限って怒ったのか。
分からないまま父は他界した。
それから時間が経って、僕は大人になった。
酸いも甘いも程々に経験して、あの日の事を今日みたいに思い返すことがある。
大人になった今なら、あの日の父の気持ちが少し分かるような気もするのだ。
あれは『しつけ』だと思う。
腹が立ったとか、轢いた事が許せないとか、決してそんな事ではなく
僕がおっちゃんを轢いて、二度目はやらなかった事、これを「逃げ」と捉えたのではないかと思う。
大袈裟かもしれないが『嫌な事から逃げた』『失敗を克服出来ないままにしようとした』事に怒ったのではないかと思う。
というのも、僕も大切な誰かに対して同じような気持ちになった事があるからだ。
チャレンジした→失敗した→もういやだ
というのはあまりに短絡的で、男として情けないと今の僕なら思えたのだ(昭和的ではあるが)
父が他界して20年近く経つが、父が居ない約20年間の自分自身に父の面影を何度も見た。
あの日の父と同じ事やってるな、という出来事が何度もある。
父の遺伝子は間違いなく僕の中にあって、短い期間でも父の意志は僕の中に宿っていると思う。
まあ、でも
僕ならまず慰めますけどね。