見出し画像

【少子化シリーズ】「子供を産むのは非合理的と思っている愚民」を知る事から始めないとね。

1.【筆者のコメント】

社会学的見地から言うと、200年間の資本主義の社会構造が、生活者の潜在心理を破壊してしまった。

「高度に発達した消費社会」がもたらしたモノは「究極の妄想」であり、人間の欲求の源泉に根付いている「究極の怠惰な生活」であり、言ってみれば「お姫様願望」をくすぐる資本家達の狙いにまんまと嵌っているという現実からは逃げられない。

だから、「公平な民主主義」という妄想も捨て去る必要があるという事です。


【これから50年の目標】
世界一生活水準が高く、人間としての質も世界一の国家を目指そう。

50%の人口でも、GDPの規模2倍を目指す。
その為には、4倍の生産性を目指し、3倍の労働分配率を目指す。その為には、50%の人口の質を究極に高める方法論を採用すべきである。




2.3.6兆円の「異次元」対策も効果薄か、日本人はなぜ「子ども産むのは非合理的」と考えるようになったのか

朝比奈 一郎 2024.9.25(水)


 間もなく終わりを迎える岸田政権ですが、目玉政策のひとつが「異次元の少子化対策」でした。2028年度までに新たに毎年約3.6兆円の関係予算を付けるとされている対策で、対GDP比で、世界トップレベルのスウェーデン並みになるという試算もあり、数字的にはまさに「異次元」ですが、これで我が国の少子化問題が解決するだろう、という話は聞こえてきていません。


政府の担当者も3.6兆円で少子化が改善するとは思っていない

これまでも、幾度となく少子化対策は施されてきており、そのたびに、威勢のいい言葉が躍ってきました(出生率1.8を達成するとした安倍政権の「新三本の矢」の一つ〈2015年9月発表〉など)。一時的に改善したように見えた時期もありましたが、本質的には、むしろ少子化は加速してしまっています。

 そしてついに2023年、東京の合計特殊出生率が0.99という衝撃的な数字になりました。俗に「0.99ショック」と呼ばれるものです。国全体の合計特殊出生率も1.26で、一度は底を打って上昇傾向にあるように見えていた数字がまた急激に落ちて、厳しい現実を私たちは突き付けられました。

 以前から指摘されてきたことで、私もそう思っていましたが、団塊ジュニア世代の動向に注意する必要があります。今年は同学年で200万人以上いる団塊ジュニアの中核である昭和49年生まれの人々が50歳になる年です。この団塊ジュニアというボリュームゾーンがもう子どもを産む歳ではなくなったので(50歳を超えて出産する女性もいますが、ほとんどいない)、ある意味、予想されていた現実でもありました。そして数字的には、これから少子化のペースがさらに上がってしまう可能性が大きいということになります。

そういう現実の中で、新たに毎年3.6兆円を加える形で「異次元の少子化対策」を実施したからといって子どもが増えるかと言えば、実は政府の担当者もそう簡単だとは思っていません。少子化を多少食い止める効果はあっても、反転して増やすところには行かないと、私の知る政策担当者たちも感じているのが現実です。少子化対策には、もっと根本的な解決策が必要だということを、みな身に染みて感じています。

 私の知る政府の担当者は、年額で新たに3.6兆円という金額は、子どもを増やすには全然足りないと感じています。

たとえば「子どもを産んだら1000万円~2000万円を支給する」くらいになれば多少インパクトはあるかもしれませんが、そうでもしない限り、産休時や育休時の所得補償が充実したり、児童手当が充実したりする程度で子どもが増えるとは誰も思っていないのが現実です。これ以上の少子化を食い止める効果が多少あるくらいでしょう。

 マイナスをゼロに、ゼロをさらにプラスに持って行くには、かなりのインパクトが必要です。バラマキと批判されようが、子どもにいない人たちに白い目で見られようが、仮にお金をかけるならそれくらいやらなきゃだめだという議論です。

大掛かりな現金支給という大盤振る舞いが必要という議論にはうなずける部分もあるのですが、ただ、現在の政府の財政状況を考えたり、さらに「子どもがいる人ばかり優遇して…。今、食えない人に配るべきでは?」といった批判を勘案したりすれば、これは実現が困難な選択です。サステナブルであるとも言えません。

 であれば、少子化を食い止め、流れを逆転させるために必要なことは何でしょうか。現在、議論されている対策としては、ざっくり言って次の3つがあるかと思います。

少子化政策に関する自民党総裁選候補者の発言。果たしてこれで少子化が食い止められるのか…(提供:共同通信社)

東京はブラックホール?都心3区の既婚女性は全国平均より子どもを産んでいるのに…

 ひとつは、もっと地域に人を移すという対策です。東京の「0.99ショック」についてはすでに触れましたが、他の道府県は東京と比べて合計特殊出生率が高くなっています。人口戦略会議が、少し前に「東京はブラックホールだ、若い世代を吸い込んでみんな子どもを産まない」というふうに批判したのもその流れです。そこで、出生率の低い都市部から出生率が高い地域への移住をもっと促さなければといけないというのがこの議論の主旨です。

 地域における人口減少対策や地域活性の文脈で、国交省も最近、「二地域居住」を推進しています。二地域居住とは、いきなり地域に移住するのではなく、例えば、平日は都市部で仕事をし、休日は地域に住んでゆったり趣味や休息の時間をとるような二つの地域での生活のことです。いずれは東京から地域へという人の流れを作ることにもつながり得ます。

 私もこれまで、地域を活性化させるため、大都市圏に集中した人口を地域に分散させいくことの必要性をこれまで訴えてきました。このJBpressでも、例えば首都機能移転についても書いたことがあります(「コロナ危機に大胆な経済対策を!新・首都機能移転論」JBpress 2020年3月27日)。ですから地域活性化という点では地域分散に賛成です。どんどん進めてほしいと思います。ただ、こと人口問題に関して言えば、それが解決策になるとは思っていません。

 というのも、例えば「有配偶出生率」という配偶者がいる人の出生率に注目すれば、実は東京は全国平均を上回る数字になっていることからも明らかです。

 どういうことでしょうか? 

 例えば、東京には大学などが多いこともあって、まだ子ども産もうとしていない女性(典型的には高校を出たばかりの女子大生)が数多く生活しています。出生率を計算する際の分母にそういった女子大生たちまで含まれると、当然、東京の出生率は低くなってしまいます。

 しかし結婚している女性の出生率、すなわち上記の「有配偶出生率」を見てみると、東京在住の既婚女性は比較的たくさん子どもを産んでいる実態が浮上してきます。東京で出会って、子どもが出来たら、郊外の埼玉や神奈川や千葉などに居を構える人たちも少なからず存在します。私の両親などもまさにそうでした。私は6歳まで東京の団地暮らしで、その後、埼玉のニュータウン(親から見れば夢のマイホーム)に移住した過去があります。

【15~49歳女性人口千人当たり出生数(2020年)】出所:財務総合政策研究所 外部有識者等による研究所内講演会 中里透・上智大学経済学部准教授「東京は『ブラックホール』なのか 少子化と出生率について考える」(令和6年5月28日)より


そうした人たち(子どもが生まれた後に近隣県に移住する者)は、都道府県別の出生率において東京の数字には貢献しませんが、実は東京は、配偶者との出会いの場としての機能などからも、人口問題に関して貢献しているとも考えられます。

 中でも少々意外なのは、都心3区と呼ばれる千代田区・中央区・港区に住む既婚女性が全国平均以上に子どもを産んでいる実態です。そうやって見ると「東京はブラックホールだ」というのはちょっと乱暴な議論と言えますし、そもそも東京から地域に人を移せば少子化が改善するという主張もかなり怪しくなってきます。一般論として、所得と子どもの数における正の相関関係の存在も言われているところであり、所得の高い東京は、子どもを意識しやすい場所とも言えます。

【東京都区部の有配偶者出生率(2020年)】出所:財務総合政策研究所 外部有識者等による研究所内講演会 中里透・上智大学経済学部准教授「東京は『ブラックホール』なのか 少子化と出生率について考える」(令和6年5月28日)より


出産・育児における障害を取り除いても

 ふたつめの対策が、出産・育児を阻害している“トゲ”をどんどん抜いていこうというものです。

 たとえば「男性が育休を取りにくい」とか、「女性が育休から職場復帰したときにポストがない」とか、「出産・育児に関する自治体の手続きがワンストップサービスになっていなくて大変だ」とか、子どもを産み育てる人が感じる“トゲ”がたくさんあるので、それをひとつひとつ抜いていこうというものです。

 今回の「異次元の少子化対策」も広い意味では、この「とげ抜き」の作業とも言えますが、それをよりもっと本格化させよう、というものです。広い意味では、治安の悪化などを招かないように慎重に、海外の優秀層を日本に連れて来て、新たに「日本人」になってもらおう、ということも、そのための様々な制約を取り払って行こうという動きも(ベビーシッターの入国を容易にするなど)、この「とげ抜き」の一環とも言えます。

 もちろんこれはこれで大事なことで、現に政権も進めてきているところですが、これまでの結果が証明しているように、急に大きな成果は見込みにくく、それらが仮に実現したからと言って、出生率が急に高くなるわけではありません。

 そして、私が一番議論したいのが3番目の対策です。

「もっと子ども産もうよ」という機運はつくれるものなのか

 それは、政府も指摘していることですが、少子化や人口減少という状況を改善するためにもっとも必要な対策は、子どもを産み、育てていこうという気運を社会全体で醸成してくということです。実は、かくいう私も、内閣官房全世代型社会保障構築本部事務局の依頼で、少子化対策に向けた気運醸成のアドバイザーを2カ月前から拝命しています。意識改革というのは、体質改善的な話であり、即効性は望めない話ではあるのですが、本質的に重要だと感じています。

 端的に言えばみんなが「もっと結婚しよう」「もっと子どもを産もう」という雰囲気になってもらうということです。ただし、これは方向を間違えると、戦前の「産めよ殖やせよ」的なことになってしまいます。個人の生き方やプライバシーに政府が踏み込んでいいのか、という反発もあるでしょう。これは非常に難しいところです。

 そもそも、少子化でピンチだから子どもを産もう、という危機感からの気運醸成は極めて難しいものです。個々の家庭を考えてみれば分かりますが「少子化で国家が危機的状況にある、だからうちは社会のためにも子どもを産まなきゃ」とは普通はなりません。もちろん、そういう危機感から子どもを産まなきゃと思う素晴らしい方々もいるとは思いますが、普通はそうはなりません。仮にそういう方々が沢山いるのであれば、各地では、とっくにそういう危機感から、出生率は上がっていなっていないとおかしい状況です。

 東京などの大都会で、満員電車や人ごみに日常的に触れている人は「少子化」「人口減」と言われてもピンと来ない人もいるかも知れません。

いや、毎年子どもを産む親世代の人口は年々減っていきますので、それを計算に入れると2万人にも届かないということになるのです。

 しかも、全員がその自治体を出ずに、100歳まで生きるという前提ですから、その不自然さも考えれば、5万人が簡単に1万人くらいになると思った方が良いというのは、地域にいると肌感覚で分かります。

 そうした危機にさらされている地域ですら「じゃあ子どもを産んでなんとかしよう」という気運にはなっていなません。そうであるならば、人口減の危機を肌感覚ではつかみにくい都市圏も含めた日本全体が「子どもをもっと産んでなんとかしよう」という雰囲気になるのは相当ハードルが高くなります。

少子化は「幸せな人生とは」を問い直すチャンス

 こうやって見てくると、少子化を食い止めようというのはどだい無理な話のように思えてきます。少子化は日本社会にとって大きな危機なのですが、だからといって私たちひとりひとりが、そのピンチを少しでも和らげるために自分でできることをしようという発想には結びつきにくい状況にあります。

 ただ私は、このピンチは、ある意味では私たちが、日本社会とか日本人、もっと言えば人類の在り方を考えるチャンスなのではないかと思うのです。

 われわれは種を次代に残すためにどういうことを考えなければいけないのか。私たちにとっての本当の幸せとは何なのか。人生をどう創っていくべきで、その中で子どもを持つとはどういうことなのか。そういった生き様全体を考える大きなきっかけを与えてもらっていると捉えることもできると思うのです。

 日本以外の先進国でも同様ですが、経済が発展してきた国ではおしなべて、みんな子ども産まなくなっています。要するに少子化は、人類全体にとって、近代化・現代化の宿痾(しゅくあ)なのです。近代化、現代化が進むと、人間は個人主義的になって、客観主義的になって、合理主義的になっていきます。


【重要】子どもを産み育てることをデメリットと考えるようになった現代人


 特に日本では、従来は農村という地域的な共同体や、同じ信仰を持つ宗教的共同体、親戚一族といった血縁的共同体の中で生きてきました。
そこは、多くのしがらみがあり、非合理で、個人の権利よりも共同体の和を重視する世界です。ともすれば個人が共同体の中で抑圧される世界でもあります。


 しかし社会の近代化、現代化が進む中で、私たちは共同体を離れ、集団よりも個人の権利を重視するようになりました。それに伴い、従来の共同体的価値観からより一般的な意味での客観的価値観に強くとらわれるようになりました。

ここでいう客観的とは、たとえば周りから見てあの人出世しているね、偉いね、と評価されることです。共同体の中では、一般的には、自らの家業を継ぐなどして、それが農業だったり商業だったりするわけですが、その維持発展をはかって配偶者と一緒になり、跡継ぎを残す。いわば、自然の摂理として子どもを残してきました。

 その共同体から切り離された個々人は、自由を得ますが、同時に孤独になり、不安になります。その空白(孤独や不安)を埋めるためにも、自分にその生き方が合っているかどうかよりも、周りから見て「いい学校」や「いい会社」とよばれる組織に属することを重視し、偏差値の高さや収入の高さで自分や他人を理解するようになってきたのです。広域レベル・全国レベルでの自己の客観理解です。そこにおいてもっぱら大事なのは、地位や収入などであり、残念ながら、子どもの数や当該子どもたちをしっかり育てているかとか、社会にどれだけ貢献しるかなどは、数値化しづらいところもあり、理解の対象外になってきてしまっています。

少子化の流れも、この文脈上にあると言えます。客観的に見て、いい職場で、高い地位につき、よりよいキャリアを築いていくことを優先して考えると、子どもを産む、育てることをデメリットととらえる傾向が強くなります。自分の時間やおカネを犠牲にして子どもを産み育てるより、その分を自分のために使った方が合理的だし、自分のキャリアアップにも直結する。そもそも、時間やおカネをかけて育てた子どもがそのうち反抗したりするリスクを考えるなら(かなりの家庭でそういうことが起こる)、最初から産まない方がいいじゃない――という思考になってしまうのです。


【ここからは余計なお世話だと思います】

誰が言っても愚民たちは耳を貸さない。

*********************************

しかしそれで私たちは本当に幸せになったと言えるのでしょうか?

かつて親が子どもを産み育てる行為には、「いずれはこの子が自分の面倒を見てくれる」という打算的な面もあったのも事実です。一種の自己防衛、個人的な社会保障対策です。現代は国家による社会保障が充実しているので、親の生活保障のために子どもを産むという発想はかなり薄らいでいます。

 ただ、その打算を差し引いても、わたしたちの人生、わたしたちの幸せは薄っぺらい客観性や合理性だけで測ったりして、成り立たせるべきものなのでしょうか。共同体を離れ、個人個人の、いわゆる「いい暮らし」を最優先することが、わたしたちの幸せになるのでしょうか。現代の止まらない少子化の流れは、そのことをわたしたちの鋭く突き付ける問いなのだと思うのです。

出世すること、起業して金持ちになることが本当に「幸福」なのか

一流企業に入って出世して社長になった、若くして起業して成功を収め目のくらむような資産を築いた、タレントとして活躍し誰もが知っている人気者になった――といった客観や合理に基づく人生の“成功事例”とは全く別種の、古くて新しい「成功のロールモデル」をわたしたちは見つけなければいけない時代に入っているのではないでしょうか。

 繰り返しになりますが、人生とは何か、その人生を自分はどう築いていくべきなのか、そこにおいて子どもはどういう意味を持つのか、といった、大人たちが「合理的でないし、面倒くさい」と避けてきてしまった、今を生きる子どもたちとの対話がそこには必要です。中学生や高校生、大学生たちと、大人たちとが人生について、子どもを持つことについて語り合う、そこで子どもたちは、次代を残し社会を作ることの意味を見出したり、何かを感じたりする。そこまで踏み込んで考えないと、また、面倒な語らいに取り組まないと、子どもを産み育てていこうという気運の醸成はできないと思うのです。

 人口を地域に分散させるとか、子どもを産み育てる障害になっている「とげ」を抜いていくことは、政策的には意義があるし、重要だと思います。政策として考えると、比較的取り組みやすい課題でもあります。しかし、それらは、人口減を多少食い止める意味はあっても、本質的に流れを逆転させるほどの意味は持ちえません。繰り返しになりますが、それらの政策によって「さあ、子どもを産もう」とはならないのです。
 
子どもを持つ意味、そのやりがいや楽しさ、そういうものが伝わらないと、男性育休の補償が出るから、児童手当が出るから、という理由だけで子どもを作ろうとはなりません。あくまで、主たる話(子どもを持つ意味や楽しさ)があってこそ、従となる政策(男性育休の際の所得補償の割合や児童手当など)が活きてきます。

 テクニカルには、インフルエンサーと呼ばれる人たちが、子どもを持つ意味や楽しさを知らしめる動画などを拡散させることが考えられますが、いずれにせよ、すでに金額的には「異次元」となった少子化対策関連の財政支出に加えて、新政権に求められる真の少子化対策は、人生や子どもを持つ意味などを、地道にでも、社会全体で考えたり語り合ったりする場の構築ということになろうかと思います。

終わり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?