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サイト『アイドルの値打ち』にて生田絵梨花が最高点を頂いた

このサイトでは、独自の評価をしています。
かなり独善的且つ文学的な観点を加えた評価に見せていますが、実際の処わかりません。


※ちなみに扉の写真ですが、上段が『岩谷時子賞受賞式』、下段が『菊田一夫賞受賞式』。岩谷時子賞には加山雄三と斎藤由貴、菊田一夫賞には大竹しのぶが一緒に映っていますね。


1.いつも思う事ですが、この筆者にも世間のアイドルに対するパブリックイメージが現れています

彼は、アイドルに関心があるのでしょうが俗にいうドルオタではないのでしょうね。

世間のアイドルに対するパブリックイメージは、
「容姿もスキル(歌やダンス)も専門職に劣る事を自覚している」から「アイドルの専門スキルであるあざとく(女性にもてない)ロリコンを釣り上げる事に専念する(又は強要される)タレントの事。

生田絵梨花は、そのパブリックイメージを打破した事が最高得点92点を頂いた理由だと思います。

逆に、西野七瀬は、生田絵梨花の真逆であり、彼女の評点は90点。その評価を「圧倒的な人気と表裏一体の脇の甘さ」と言っています。


評価の基準が、アイドルの視点なので生田と西野の点差は当然の如く2点ですが、評価基準がアーティストや女優基準で有れば、圧倒的な差となるのでしょう。
それでも生田絵梨花の方が最高点になっている事は、「乃木坂46」が既存のアイドルではなく、女優やアーティストの地平線に少し近づいて唯一無二の差別化が出来たという『ビジネス上の評価』が優先している事を理解したので、この方を取り上げました。


★過去に書いた「生田と西野」について。


★このサイトの筆者が自身についてこう書いています。

膨大な数の批評を編んだルバテみたいに”僕”も、もうひとりの自分を、もうひとりの作家「楠木かなえ」を名乗り、架空の世界の住人を演じてみる。



2.生田絵梨花が最高点数『92点』になっています。

「バラエティー」と言う項目が18点になっているのが少し不満ですね。彼女はバラエティーの天才ですから。
そもそも、今の処だれも指摘していない『高いセルフ・プロデュース能力』こそが生田絵梨花の源泉なんじゃないかと思いますよ。
それにしても、これだけ社会学者的に書いても理解できない人だと言うのが素直な感想です。

グループアイドルとして、舞台女優として、枯れることのない意識、規格にはまらず勇ましく挑戦する探究心、アイドルの宿命を貫く豊かな想像力、優雅さに添えられる自己愛と奔放、つまりキャリア確立に成功したアイドルでありながら、なおも夢に向かい成長し続ける姿勢を可能にする稀有な資質の持ち主であり、特筆すべきは、この群青色をしたイノセンスの数々をファンの眼前で「ありのままに」提示する果敢さこそ、生田絵梨花を現代アイドルの最高到達点は押し上げた要因である。

この人は、他者との距離感の掴み方が抜群に上手い。
思考の運動神経が高く自由な、作家性の優れた人。作家の魅力、その最たる才能とはやはり、何者かを語るとき、膨大な情報=事実を支えにしつつ妄想を飛躍し、その対象に片思いを募らせ、自身の日常に手繰り寄せることを可能にしてしまう点だろうか。例えば、塩野七生はユリウス・カエサルを、司馬遼太郎は坂本竜馬を、福田和也はシャルル・モーラスの人生の時々を徐実司、批評つまりフィクションに落とし込み、その日常の呑気を記した。

生田絵梨花もまた、日々すれ違う、この先、もう二度と交錯する事が無い「かもしれない」雑多な人間との交流のなかでおなじ距離を編み、素顔の扉を開く。「あの人も、私と同じ人間なんだ」と。この思弁の実践は、会いに行けるアイドル、という、アイドルとファンの距離感を毀損した今日のアイドルシーンにあって、アイドルの神秘さとアイドルを演じる少女のアイデンティティを他者にいためつけられずに「ありのままに」生き抜くための、やがてはあたらしい世界への扉を開く為の核心的な資質・行動力といえるのではないか。

彼女が嬉々と語る憧憬には、それがアイドルの科たる夢にしてはやや逸脱した、淡いノスタルジーに支えられた遠景や約束であるのにもかかわらず、抑えきれずに共感してしまう説得力がある。
文芸の世界で生活することが、自分ではない何者かを演じる事が、あくまでも日常生活者としての夢や憧れへの献身であるかのように錯覚させる。それはやはり、彼女が、後期であり情熱的である強い魂の中に、普遍的な日常の呑気を放つからである。
だからファンは、濃密な夢のつづき、文字通りハッピー・エヴァー・アフタへの招待を望み、アイドルの書く物語に投入してしまう。

生動する状況のなかで、登場人物がその条件と戦いながら自己の可能性を押し上げてゆくような小説が読みたいという希望は、反時代的にすぎるだろうか。

福田和也/作家の値うち

乃木坂46の物語性を決定づけた、アイドルとの出会いを一つの希望として描いた『君の名は希望』を前にして確立させた、アイドルの、いや、アイドルを演じる少女のアイデンティティ。それを彼女は、初めて表題曲のセンターに選ばれた『何度目の青空か?』におおいて編み上げた笑顔を最後に、転回させる。アイドルの「じゃんるらしさ」との決別。役者、女優、あるいはミュージカル歌手としての日常を羨望し、『乃木坂』の主役になる事を断念したその生田絵梨花の横顔。その行動力は、彼女の夢の道のにならず、アイドルシーンの限界をも拡充し、今日のグループアイドルに見られる狭い役割を打ち破り、可能性の幅を押し広げる事になった。
乃木坂46=アイドルという条件のなかで、自分の本当の夢を求め続け、その「夢」に果敢に手を伸ばす行為が結果として乃木坂46の、グループアイドルの価値を押し上げるというストーリー展開に、このアイドルの本領・魅力がある。

この人はとにもかくにも、ユーモアに溢れた人、である。わき目もふらずに夢と屈託の隘路の壁を掘り進む力強さから伝播する信頼感を下敷きに、生まれ持った自己認識の強さ、強烈な自己肯定のもとに描かれるその日常の仕草・立ち増え上手いは、グループアイドルとして前例のないユーモアと映り、次の瞬間に何が起こるのか全く予想のつかない不安と興奮を観るものに与えた。ファンは、彼女の夢に乗りたい、と思ったし、仲間のアイドルは、生田絵梨花のようなアイドルになりたい、と憧れを抱いた。
『コゼット』をミュージカルで演じた日、例えば『魔女の宅急便』の主人公・キキの内側から魔法の力が消失したあの朝と同じ様に、「生田絵梨花」のユーモアも身体の中から欠落してしまったが、そこに見る痕跡こそ彼女が完全い「アイドル」の枠組みを貫いた証なのだ。
演劇に向ける解釈と感性を、アイドルを演じる日常に落とし込み、グループアイドルの外殻を破砕する。それは、乃木坂46がエンターテイメントの地平においてあたらしい存在理由を獲得する光景へと重なっていき、やがて『乃木坂らしさ』の象徴になった。グループアイドルの価値を、一段上へ押し上げた。
もちろん、彼女の躍進は演劇の世界のみにとどまらず、例えば、今日、シーンの話題を独占する乃木坂46の写真集の快進撃、その口火を切ったアイドルとしても「生田絵梨花」の名を上げる事が出来る。

グループアイドルにとっての努力とは、困難な目標を仲間とともに成し遂げた際、喜び安堵する仲間を尻目に、もう次の、新たな壁を登る為の準備を始める様な行動を示す。生田絵梨花は努力できる数少ないアイドルである。自己超克と呼ばれる行為は、周囲に疎ましさや息苦しさを与える場面も少なくはないはずだ。生田絵梨花と他のアイドルを決定的に隔てるもの、それは、無理解に囲繞され孤立してもなお、歩を進める事の出来る独断力である。アイドル・生田絵梨花は犀の角のようにただ独り歩む。孤独や孤立感こそが、文芸と言う「虚構」を作り上げると熟知しているから。


3.西野七瀬についての記述ですが、私も納得いくアイドル西野七瀬の理解です。秋元康が作り出した乃木坂アイドルの最高傑作。



【参考】評価一覧表


【参考】

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終わり

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