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【竹内まりや】45周年アルバム発売に関するインタビュー、秋元康。ちょろっと【生田絵梨花】の話も。

1.【筆者のコメント】

秋元康氏、さすが竹内まりやと仕事していたとは!!

秋元先生、アイドルに対する話もしてます。

秋元「僕は審美眼、全然ないですよ。ファンが見つけて、ファンが育てるんです」

竹内「あ、そうか! 先日、(元乃木坂46の)生田絵梨花さんとコラボさせていただいたんですね。生田さん、表現力があって、声もよくて、ピアノの腕前もあって。最初は大勢のグループの中の一員として見るけど、実はあの中にすごい才能を持った人がそれぞれいるんだなと思った。そういう人たちがアイドルというステップを踏んだ後に自己実現に目覚めていくのは、当然のことですよね」

竹内「でも、アイドルを夢見る女の子たち一人ひとりに人生があるわけですよね。若い人の人生を左右することへの責任というか、重いなと思うことはありますか?」

秋元「ありますよ。それを一番プレッシャーに感じます。でも、芸能界を目指すのであれば、この人は主役をつかんだ、この人は3番手だということは、必ずあるわけじゃないですか。スターというのはがんばっても報われないことはあるし、思ってもみないかたちで報われることもある。それを彼女たちが身をもって知ることになるのは残酷だなってつくづく思います。
でも少なくとも、確かにこの世界は公平ではないが、汗をかかないと運はやってこないということは言えると思うんですよね」

生田絵梨花の場合は、加入時15歳の時から「ミュージカル女優になる」という夢(=セカンドキャリア)を目標にしていたので、アイドルに流れる事と戦っていた。
それで二度も辞めようとしていたり、オタ切り迄行っていた全くアイドルらしくないメンバーだったけれど、それが乃木坂46のカラーになって行ったと言う逸材。




2.「どれだけ人の思い出に残っていくか」――秋元康と竹内まりやが語るJ-POP、アイドル、創作人生

yahooニュース特集 2024/10/13(日)

シンガー・ソングライターとしてヒットソングを世に送り出す竹内まりや(69)がデビュー45周年を迎えた。1978年のデビューからわずか3年で休業を宣言し、27歳の時にミュージシャンの山下達郎と結婚。以来、家庭生活を優先しながら、音楽活動を行うという独自のライフスタイルを築いてきた。休業宣言前の竹内をよく知るのが、作詞家でプロデューサーの秋元康(66)だ。放送作家として、竹内が出演する番組の構成を担当した。その後は、それぞれ日本のポップスの一翼を担ってきたが、今も気の置けない関係だという。歌い継がれる名曲はどのように生まれるのか。昭和と令和のアイドルの違いは。思い出を交えて、3時間たっぷりと語り合った。

(取材・文:長瀬千雅/撮影:能美潤一郎/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部/文中敬称略)


44年前の出会い アイドル的な活動で多忙を極めて

出会いは44年前にさかのぼる。竹内の4枚目のシングル「不思議なピーチパイ」が大ヒットした1980年。竹内は25歳、秋元は22歳だった。

竹内「文化放送で私のラジオの構成をしてくださってたんですよね。『こんばんは、竹内まりやです』から始まる手書きの台本を覚えています」

秋元「まりやさんのマネージャーをされていた方から、『コンサートの構成案を出してくれないか』と頼まれて」

竹内「河口湖でライブのリハーサル合宿をしていた時に、打ち合わせに来てくれましたね」

秋元「終わって帰ろうとしたら、まりやさんが『私も帰る』と言い出したんですよ」

竹内「達郎とつき合い始めたばかりの頃で、早く帰りたいなと思ってて(笑)。『車に乗っけてってもらえますか』って頼んだんですよね」

秋元「東京までドライブして、確かまりやさん、麻布十番で降りたの。達郎さんがあのあたりに住んでたんだと思う」

竹内「よく覚えてますね(笑)。あの頃アッキー(秋元さん)は構成作家をしていたけれど、『将来的に何がやりたいの?』と聞いたら、一つの大仕事を成し遂げられる人間になりたいって」

秋元「そんなこと言いました? 恥ずかしい。たぶん、自分はこれをやっています、と言えるものがほしかったんですよね」

竹内「(美空ひばりの)『川の流れのように』を作詞されてヒットした時、ああ、夢を成し遂げたんだな、と思ったんですよ」

二人が出会った頃、最先端の音楽カルチャーを届けようというテレビの企画が立ち上がった。司会に加藤和彦と竹内まりや、構成に秋元康が起用される。1980年10月にスタートした音楽番組「アップルハウス」だ。若者に支持されたが、大衆的な人気は得られず、半年で終了。1981年の4月、竹内はシングル「イチゴの誘惑」をリリース。イベントにテレビ出演にと、アイドル的な売り出し方で多忙を極めた。


秋元「あの頃が一番悩んでたんじゃない?」

竹内「『イチゴの誘惑』の頃はもう絶対休業しようと決めながらやってた」

秋元「今でも覚えているんだけど、赤プリ(赤坂プリンスホテル)かどこかでイベントをやってたんですよ」

竹内「そうそう。白いエプロンをかけて、イチゴのショートケーキにこうやってやるような(生クリームを搾るようなジェスチャー)イベントをしたんです」

秋元「その時に、『これは私じゃない』っていう顔をされたんですよ。まりやさん、悩んでいるんだろうなって思った」

竹内「楽曲はいいのに、宣伝するためにやってることが、ザ・芸能活動だってことが疑問だったんですね。『ピーチパイ』がヒットしたので、『春はまりやのフルーツポップス!』みたいなキャッチフレーズで。芸能人運動会も真剣にやるから、走り高跳びで準決勝まで行ったりして。でもオンエアを見ると、何か違うぞ、と(笑)」

秋元「すごいな(笑)。でもそういう時代だったし、レコード会社も売り出し方がわからなかったんだと思う。歌謡曲とニューミュージックの端境期だったから」

竹内「『ピーチパイ』の後に、担当ディレクターから『次は(作曲家の)筒美京平先生に頼もうか』と言われたんです。京平先生に曲をいただくと、ヒットが確約されるようなもの。でも完全に芸能界の人になって自分のアイデンティティーを失うと思って、お断りしたんです。もしあの時、先生の曲を歌ってそれが1位をとっていたりしたら、自分で作曲をしようという意欲はなくなっていたかもしれない。歌謡界ではそれくらい大きな存在でしたから。個人的には仲良しでしたけど」


汗をかかないと、クリエーターはダメになる

音楽活動を休業し、山下達郎と結婚。自分の時間を取り戻した竹内の元に、楽曲提供のオファーが舞い込むようになる。オファーに応えて作った曲の一つが、中森明菜に提供した「駅」だ。その後、竹内がセルフカバーしてヒット。秋元は、初監督映画『グッバイ・ママ』の主題歌に「駅」を使用した。「原作は…竹内まりやの『駅』です。」とキャッチコピーをつけるほどインスピレーションを受けた。

竹内「山下達郎をサポートするのは、私にとって“間接的な音楽活動”でした。表舞台から退いて家庭を優先したことは、すごくよかったと思います。他のママたちと幼稚園の送り迎えをしたりしていると、『この女性たちはどういう歌を求めているんだろう』という気持ちが生まれたりして。普通の生活の中で見えてくるリアルな社会みたいなものがあったんですね。今も、朝起きて夜寝るまでの日常の時間を、どのくらい面白がれるかなと思いながら日々暮らしています」

秋元「その生き方が強みですよね。まりやさんの歌は映像が浮かぶんですよ」

竹内「私はアッキーがとんねるずに『ガラガラヘビがやってくる』を書いた時、本領発揮と思いました。お笑い芸人が歌う音楽プロジェクトで、カラオケ的な文化に浸透するような詞」

秋元「あの頃は仕事と遊びの間で歌や企画が生まれて。石橋(貴明)くんと港さん(港浩一/現フジテレビ社長)たちとご飯を食べている時に盛り上がって、石橋くんがポン酢、俺が餅が嫌いだとか話しているうちに生まれたのが『食わず嫌い』
(バラエティー番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』の名物企画)だったりね」

竹内「へえ、そうだったんだ。私はどんどん活躍するアッキーを面白く見ていたけれど、企業に招かれて経営のアドバイスもしていましたよね。今でも覚えているのが、どうして知らない畑でも相手の役に立つことを言えるんですかって聞いたら、自分には根拠のない自信があると答えたの」

秋元「それはね、高校2年の時にたまたまラジオ局に送った台本が面白いと言われて、それで始めたからずっとアルバイトなんです。結局は外野、ガヤなんですよ。だから『こういうことをやらなきゃダメだよ』と言えてしまう」

竹内「結構ノリで人を説得できちゃうんですよね」

秋元「そうそう。でもそのうちに、会議に出てしゃべるだけではクリエーターとしてはダメになると思った。自分が面白いと思うものを書かないとと思って書いたのが、小説『着信アリ』です」

竹内「そう思えたのはさすが。人に理屈で指示を出しても、それは自分が何かを生み出しているわけじゃないってところはありますからね」

秋元「僕らはやっぱり何か具体的なものを作らないと。自分が歳をとって説教臭くなっても、やっぱり自分自身も汗かかないとね」


昭和と令和のアイドルの違いは?

竹内が楽曲を提供した先には、岡田有希子、河合奈保子、広末涼子といったアイドルたちが含まれる。アイドルの移り変わりを二人はどう捉えているのか。

秋元「まりやさんが作る曲には、プロデューサー目線が入っていますよね。『この子がこういう歌を歌ったらいいな』と思いながら書いてる」

竹内「いつもそうですね。その目線はアッキーと近いものがあると思う。もしもあの頃の(広末)涼子ちゃんに曲を書いてくださいというオファーがあったら、アッキーも『MajiでKoiする5秒前』のようなものを書いたんじゃないかな。これまでたくさんのアイドルをプロデュースしてるけれども、審美眼っていうのかな、『この子だ!』と思うのは何が決め手になるんですか?」

秋元「僕は審美眼、全然ないですよ。ファンが見つけて、ファンが育てるんです」

竹内「あ、そうか! 先日、(元乃木坂46の)生田絵梨花さんとコラボさせていただいたんですね。生田さん、表現力があって、声もよくて、ピアノの腕前もあって。最初は大勢のグループの中の一員として見るけど、実はあの中にすごい才能を持った人がそれぞれいるんだなと思った。そういう人たちがアイドルというステップを踏んだ後に自己実現に目覚めていくのは、当然のことですよね」

秋元「僕がAKB時代からやり始めたことは、スターになるまでの可視化なんです。プロダクションがお膳立てするのではなく、うまい人も下手な人も一緒になってがんばるうちにいろんな感情を経験して、自分が本当にやりたいことに気づいていくんです」

竹内「今アイドルになる人は、その先に何か目標があって、アイドルをステップにできるぐらいのメンタリティーだからやっていけるんだと思いますね」

秋元「だけどちょっと寂しいなと思うのは、われわれの時代は、アイドルはいくつになってもアイドルじゃない? 松田聖子さんは還暦をすぎても聖子ちゃんで、アイドルなわけ。今の子たちはいくつぐらいまでって決めてるんですよ。その先は女優になるとかタレントとか、声優とか。そこが今の子たちのドライなところで」

竹内「でも、アイドルを夢見る女の子たち一人ひとりに人生があるわけですよね。若い人の人生を左右することへの責任というか、重いなと思うことはありますか?」

秋元「ありますよ。それを一番プレッシャーに感じます。でも、芸能界を目指すのであれば、この人は主役をつかんだ、この人は3番手だということは、必ずあるわけじゃないですか。スターというのはがんばっても報われないことはあるし、思ってもみないかたちで報われることもある。それを彼女たちが身をもって知ることになるのは残酷だなってつくづく思います。
でも少なくとも、確かにこの世界は公平ではないが、汗をかかないと運はやってこないということは言えると思うんですよね」

竹内まりやのポップスと、山下達郎

二人が青春を過ごした1970年代、若者の憧れは海外だった。洋画や洋楽が次々に紹介され、ライフスタイルやカルチャーに影響を与えた。

秋元「僕ね、対談するにあたって、リードに使っていただけるようなワードを考えなきゃいけないと思って、考えてきたんですよ。ほら、放送作家だからさ」

竹内「それは性(さが)だね(笑)」

秋元「でね、僕が思ったのは、『竹内まりやは音楽界の戸田奈津子である』。どう?」

竹内「あははは。洋画の字幕翻訳の方ですよね」

秋元「僕らは、洋画はなんでも戸田さんの字幕で見たわけじゃない? それと同じで、まりやさんの中にある洋楽がメロディーになり、そこに日本語の歌詞が乗るから、僕たちは理解できていたわけで」

竹内「その捉え方は面白いな。私自身はそんな意識はなく、根っこにあるものは洋楽だけど、そこにグループサウンズがあったり、歌謡曲もあったり。いろんなものが組み合わさって、自分のポップスができあがってると思っているんです」

秋元「僕なんかは自分で書けない分、プロコル・ハルムの『青い影』をやりたいとか、シルヴィ・ヴァルタンの『アイドルを探せ』のイメージでといった言い方をしないとわかってもらえないので」

竹内「わかる、共通言語が洋楽ベースということね」

秋元「そう。自分の中を通り過ぎていったもので伝えるしかない。その点、まりやさんは自分で書けるし、達郎さんという書庫みたいな人がいるから」

竹内「自分のやりたい音楽を、山下達郎というアレンジャー、プロデューサーの力を借りて具現化しているから、ぜいたくですよね。彼は私よりずっとうまく歌える上に、ギターもピアノも弾いて、ストリングスの譜面を書いて、一人で多重コーラスを入れて、なおかつトータルのアレンジができる人なんて、他にはどこにもいない」

秋元「達郎さんはお元気ですか?」

竹内「71歳で元気に全国を回っています。そういえば、石橋くんと4人で、両国のちゃんこ鍋屋に行きましたよね。その後カラオケ屋に流れて。あの時の達郎、面白かったでしょ?」

秋元「カラオケなのにずっと音を調整してて(笑)。つまみを回したり、スピーカーの向きを変えたり。達郎さんのイメージは昔から変わらない。下町の頑固なおやじなんですよ」

竹内「変わらない、変わらない」

秋元「音楽に対して、誰よりも詳しくて厳しい。元祖ヲタクだよね。達郎さん、大リスペクトだから、ずっと頑固おやじでいてほしい。4、5年前に、AIで美空ひばりさんを再現するという番組があって、頼まれて曲を書いたんです。そうしたら、達郎さんがラジオで『死者への冒涜だ』と言って、大騒ぎになって。みんなが心配してくれたんだけど、いやいや、達郎さんらしいじゃないって」

竹内「はっきりとものを言うのが、達郎たるゆえんですよね。自分がいなくなった後、もしそういうことをされたら嫌だという気持ちがあるからだと思うんですよ」

秋元「ミュージシャンの中にもテクノロジーに進む人と、達郎さんみたいに生身でやりたい人に分かれますね」

竹内「例えば、私は大滝詠一さんと3人でトライアングルをやりたいという夢があったんだけど、夢半ばで旅立たれて。大滝さんがAIとして存在して、私と達郎とで大滝さんがやりたがりそうなことは何か見つけられるかもしれないけど、それを大滝さんが望むかというと、たぶんそうじゃないと思っちゃうから、その企画はなくなるわけです」

秋元「そこにはやっぱり本人の意思が一番重要だと思うので」

竹内「もう問いかけられないし、それを商売にすることもやっぱりなんとなく抵抗があるということでしょうね」

ヒットは狙えるけど、スタンダードは狙えない

令和の今、日本の「シティポップ」が海外で注目され、K-POPがアメリカでチャートインしている。音楽を取り巻く変化をどう捉えているのか。

秋元「まりやさんはK-POPは聴くの?」

竹内「興味を持って見てみるんだけど、それぞれの区別がつかなくて。でも、やっぱりみんな歌とダンスがうまい。どれだけ努力してるんだろうと思う」

秋元「大勢の人が惹かれるのはわかる。だけど、僕らが親しんできた歌は、ギターなりピアノなりでメロディーから作っていくものだから、トラックから打ち込みで作っていくのはどうしても慣れないんですよね。J-POPには、メロディーの強さがこれからも絶対に必要だと思います。韓国の音楽業界がアメリカのダンスミュージックを席巻したのは嬉しいですね」

竹内「グループが増えるほど、差異を出すことは難しくなりますよね」

秋元「われわれの世代でいうと、グループサウンズなんですよ。似たようなバンドが乱立したためにブームが去った。長く残るものを作るのは、本当に難しい。ヒットは狙えるけど、スタンダードは狙えないんです」

竹内「大衆が20年後も歌い続けたいと思う曲は、まずスタートが流行する歌じゃないとダメだけれども、問題はそこから先ですよね」

秋元「どれだけ人の思い出に残っていくかだよね。達郎さんが『クリスマス・イブ』を書いた時も、まりやさんが『駅』を書いた時も、それがスタンダードになるかなんてわからないからね」

竹内「アッキーは今までに書いた歌で、一番好きなものはありますか?」

秋元「ヒッチコックじゃないけど『ネクストワン』(次回作)じゃないかな。まりやさんもそうじゃない?」

竹内「そうかもしれない。まだまだだと思うから、次を作るんでしょうね」

秋元「僕がずっと好きなのは、まりやさんの声。コニー・フランシスみたいな、ちょっと引っかけるような歌い方が好きなんです」

竹内「歌い癖のことですよね。その癖をなくそうとすると、竹内まりやのボーカルじゃなくなるので、自然のままでいいかなと。私の根源的なアイデンティティーは、『歌い手』です。長く続けられるのは、喜んでくれる人がそこにいるから。どんな人が自分の歌を聴いてくれているのか知りたい。私は握手会がないので(笑)」

秋元「やればいいじゃない(笑)」

竹内「かつて、(サザンの)桑田夫妻と、握手会のない私たちはどうやってアルバムをより多くの人たちに届けようかと、真剣に話したことがある(笑)。長年応援してくださる方がライブに来て、『不思議なピーチパイ』を一緒に歌ってくれたりすると、すごく感慨深い気持ちになるんですよね」

秋元「まりやさんのライブ、1曲目は何で来るんだろう。それを考えるだけで楽しいよね」

秋元康(あきもと・やすし)
1958年生まれ。
東京都出身。高校時代から放送作家として頭角を現し、「ザ・ベストテン」など数々の番組構成を手がける。
作詞家として、美空ひばり「川の流れのように」、AKB48「恋するフォーチュンクッキー」など数々のヒット曲を生む。
「AKB48グループ」「坂道シリーズ」の総合プロデューサーを務めるほか、映画・ドラマの企画・原作、CMやゲームの企画、小説執筆など、活動は多岐にわたる。

竹内まりや(たけうち・まりや)
1955年生まれ。島根県出身。
1978年、デビュー。1981年、音楽活動を一時休止することを宣言し、翌年、山下達郎と結婚。
1984年にアルバム『VARIETY』で活動を再開。作詞・作曲家として楽曲提供しながら、自身のアルバムも発表。
2023年11月よりデビュー45周年を迎えている。10年ぶりとなるオリジナル・アルバム『Precious Days』が10月23日に発売。
2025年、11年ぶりの全国ツアーが開催予定。


終わり

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