1.【筆者のコメント】
秋元康氏、さすが竹内まりやと仕事していたとは!!
秋元先生、アイドルに対する話もしてます。
生田絵梨花の場合は、加入時15歳の時から「ミュージカル女優になる」という夢(=セカンドキャリア)を目標にしていたので、アイドルに流れる事と戦っていた。
それで二度も辞めようとしていたり、オタ切り迄行っていた全くアイドルらしくないメンバーだったけれど、それが乃木坂46のカラーになって行ったと言う逸材。
2.「どれだけ人の思い出に残っていくか」――秋元康と竹内まりやが語るJ-POP、アイドル、創作人生
yahooニュース特集 2024/10/13(日)
シンガー・ソングライターとしてヒットソングを世に送り出す竹内まりや(69)がデビュー45周年を迎えた。1978年のデビューからわずか3年で休業を宣言し、27歳の時にミュージシャンの山下達郎と結婚。以来、家庭生活を優先しながら、音楽活動を行うという独自のライフスタイルを築いてきた。休業宣言前の竹内をよく知るのが、作詞家でプロデューサーの秋元康(66)だ。放送作家として、竹内が出演する番組の構成を担当した。その後は、それぞれ日本のポップスの一翼を担ってきたが、今も気の置けない関係だという。歌い継がれる名曲はどのように生まれるのか。昭和と令和のアイドルの違いは。思い出を交えて、3時間たっぷりと語り合った。
(取材・文:長瀬千雅/撮影:能美潤一郎/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部/文中敬称略)
44年前の出会い アイドル的な活動で多忙を極めて
二人が出会った頃、最先端の音楽カルチャーを届けようというテレビの企画が立ち上がった。司会に加藤和彦と竹内まりや、構成に秋元康が起用される。1980年10月にスタートした音楽番組「アップルハウス」だ。若者に支持されたが、大衆的な人気は得られず、半年で終了。1981年の4月、竹内はシングル「イチゴの誘惑」をリリース。イベントにテレビ出演にと、アイドル的な売り出し方で多忙を極めた。
汗をかかないと、クリエーターはダメになる
音楽活動を休業し、山下達郎と結婚。自分の時間を取り戻した竹内の元に、楽曲提供のオファーが舞い込むようになる。オファーに応えて作った曲の一つが、中森明菜に提供した「駅」だ。その後、竹内がセルフカバーしてヒット。秋元は、初監督映画『グッバイ・ママ』の主題歌に「駅」を使用した。「原作は…竹内まりやの『駅』です。」とキャッチコピーをつけるほどインスピレーションを受けた。
昭和と令和のアイドルの違いは?
竹内が楽曲を提供した先には、岡田有希子、河合奈保子、広末涼子といったアイドルたちが含まれる。アイドルの移り変わりを二人はどう捉えているのか。
秋元「僕は審美眼、全然ないですよ。ファンが見つけて、ファンが育てるんです」
竹内「あ、そうか! 先日、(元乃木坂46の)生田絵梨花さんとコラボさせていただいたんですね。生田さん、表現力があって、声もよくて、ピアノの腕前もあって。最初は大勢のグループの中の一員として見るけど、実はあの中にすごい才能を持った人がそれぞれいるんだなと思った。そういう人たちがアイドルというステップを踏んだ後に自己実現に目覚めていくのは、当然のことですよね」
竹内まりやのポップスと、山下達郎
二人が青春を過ごした1970年代、若者の憧れは海外だった。洋画や洋楽が次々に紹介され、ライフスタイルやカルチャーに影響を与えた。
ヒットは狙えるけど、スタンダードは狙えない
令和の今、日本の「シティポップ」が海外で注目され、K-POPがアメリカでチャートインしている。音楽を取り巻く変化をどう捉えているのか。
終わり