私が陸上と出会うまで
今回からは私の歴史やスポーツとの関わりを発信していきます。
子どものときに何のスポーツに打ち込んでいて、そこからどのようにして陸上と出会い、どのような努力をして頑張ってきたかなど思い出せる範囲で書いていこうと思います。
今回のnoteでは、まずは第1章を綴ります。
私が陸上と出会い、陸上に本気でのめり込むまで。
私が陸上と出会うまで
私は昔から元気が売りでスポーツが大好きな子どもでした。
休み時間や空いた時間にはすぐ友達といろんなスポーツをして遊ぶ活発な子です。
スポーツにきちんと接点を持ったのは、小学校2年生の時、サッカーをクラブチームで始めたのが最初でした。サッカーでは、リフティングが苦手だったのを一番覚えています。あとは利き足でない左足で蹴ることが苦手すぎたという記憶もあります。
小学校4年生からはサッカーをやめて、地元のクラブチームで野球を始めました。
東京出身なのでジャイアンツが好きでした。その時代は松井秀喜選手がいたため、松井選手ようになりたいと思って始めたことを覚えています。松井選手のホームランを見にいくために何度も東京ドームに行ったことも今では良い思い出です。
つい最近、そのときに所属していたクラブチームがテレビで特集されていて懐かしい気持ちになりました。
私は昔からそんなに背が大きい方でなく、パワーでは周りに勝てませんでした。なので、すばしっこさや速さを武器に周りの子たちから目立った存在になりたいと思っていました。サッカーでは前にボールを蹴り、追いつきシュートをする。野球では泥臭くてもいいから塁に出て、3塁まで盗塁をするようなプレイスタイルでした。読売ジャイアンツの松井秀喜選手を夢見て始めたにも関わらずホームランなど打てるわけなく、打順も1番か9番しか打たせてもらえませんでした。それでも野球が楽しくて、プロ野球選手になってやると思ってやっていました。
小学校の中では気づいたら頃には学年で1番目か2番目には速かったと記憶しています。
私の親は母親が陸上部に所属していたという話は聞いていましたが、目立つような活躍をしていたわけではなかったようです。ということは、今の陸上の原点には案外遺伝の要素は少なかったのかもしれません。活発で身体を動かすことが好きな少年だったので、自然と走ることも速くなったのではないかと思います。
運動会では徒競走も負けたことがなく、リレーにおいても良い走順を走っていました。正直、少年期には負けた記憶がないくらいです。小学校6年生ではアンカーで私が逆転して優勝した記憶もあります。そういう意味では小さい頃から活躍する機会に恵まれていたと思います。自慢のつもりではないのですが、そのように聞こえていたらすみません。
私の通っていた小学校は、国立でした。運動より学習に力を入れるような子供が多く、私のような活発な子が目立てるような環境だったとも言えます。なので、全国レベルでどれくらい速かったかは、今となっては全く分かりません。小学校で大会等にも参加したことがないのでただのお山の大将だったのかもしれないですね。
ここからは中学校の話になります。
中学校に入ってからも野球をシニアのチームで続けていました。
私はボールを遠くに飛ばすための肩が弱く、セカンドをやるのが良いと思い、実際にセカンドを務めていました。その後、足が速いことを自覚してからは、センターポジションに移りました。
肩が弱いことをなんとか克服しようと頑張りましたが、なかなかうまくいかなかったです。
運動会なども過ぎ、秋になった頃です。陸上部の部員からリレーを組みたいから試合に出てくれないかと頼まれました。それが陸上競技との最初の接点です。
初めて陸上の試合でリレーと100mに出場しました。
軽くリレーの練習をして、スパイクもたいして履いたことがない状況で出ましたが、区の大会で100mで2位になりました(1年生だけのレース)。タイムは覚えてないので参考にならなくてすいません。その結果により、走ることが私には向いているのでないかと思ったのは事実です。
野球への思いも捨てきれず、シニアクラブで行いながら陸上部の試合に呼ばれたタイミングだけ出るという活動を続けていました。野球の練習は水・土・日だったのでそれ以外は出れるタイミングは陸上部の練習に参加するような非常にハードな日々を過ごしていたなと今では思います。実は卓球やテニスも得意でその間に卓球部に飛び入り参加したり、テニス部にも仮入部したりと本当にスポーツが好きな少年でした。
高校生になってからは入学した当初から陸上部に所属しました。
野球や卓球、テニスを全て辞めてね。
次回は陸上に本気になった私を書かせてもらおうと思います。
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