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松川浦とともに歩み、天高く未来へ飛び立つ「ホテル飛天」



松川浦が育む緑の絨毯、そして蘇る秘密の記憶

「いらっしゃいませ、ようこそお越しいただきました」  

松川浦を望む高台を上ると、ゆったりとした時間が流れる癒しの場所にたどり着いた。上皇さまが2度も訪れたというここは、ホテル飛天だ。そんな由緒あるホテル飛天を取り仕切るのは、生まれも育ちも相馬市の管野貴拓(かんの たかひろ)さん。

福島県相馬市にある松川浦は、海水と真水が入り混じる汽水湖であり、そこに住む人々は代々に渡って海の恵みを受け取ってきた。その始まりは縄文時代にまで遡り、昔は塩づくりを行っていた。現在はあおさ漁が盛んであり、海面には緑の絨毯が広がる。あおさは網で養殖されるため、松川浦の湖内にはその網が至る所に設置されているのだ。 

夏はもっぱら海へ行き、ひたすら泳いでいたという貴拓少年。海では砂浜で遊んだり、ハゼやカレイを釣ったりもしたそうだ。実家であるホテル『みなとや』の前には市場があった。

屋根があり、大人が誰もいなくなる午後の市場は、子どもたちにとって雨の日に打ってつけの遊び場だった。はたまた、スーパーの廃墟は、貴拓少年たちの秘密基地になっていた。

そこでどんな時間が紡がれていたのか―。
きっと、それは彼らの胸の中だけに秘められている。 

相馬市松川浦


受け継がれし先代の想い、飛天を託された男の軌跡

ところで、貴拓さんは飛天の跡取り息子ではない。実はみなとやの次男であり、みなとやは菅野家が経営しているホテルだ。そのホテルは松川浦に面したところに位置し、お部屋からは絶景の日の出を楽しめる。

「飛天を継いでくれないか?」 

貴拓さんにそんな声がかかったのは、コロナ渦であった2022年のこと。当時、飛天の社長は後継ぎ問題の為に飛天をM&Aしようとしていた中、松川浦をよく知っていて信頼できる貴拓さんだからとその話を持ち掛けたらしい。

経営力が必要不可欠である代表取締役という立場。
そこに抜擢された貴拓さんのルーツは、数字が好きで経理の道に進んだことにあった。

専門学校時代には経理の資格を大方取り、卒業後の約2年間は会計事務所に勤めた。その事務所で貴拓さんは帳簿を見たり事業計画を作ったりと、会計事務所としては珍しくコンサルのような業務まで担っていた。資金繰りの良し悪しや社長としての在り方を学んで目を養った期間は、ホテルの経営にも貴拓さん自身の人生にも活きていた。 

ホテル飛天


あの日のこと、揺らぐ大地と深まる絆

あの日の貴拓さんはいつものように、みなとやで仕事をしていた。2011年3月11日は金曜日だったので、土日に訪れるお客さんに向けてズワイガニの水槽で作業していた。ズワイガニといえば日本海側で盛んに獲れるイメージだが、相馬辺りは太平洋側で唯一の産地だ。 

午後2時46分、けたたましい地鳴りとともに視界が揺れた。地震だ。 

「やばい、みなとやが潰れる」

地震で建物が倒壊し亡くなった人がいるというニュースを見たことがあった貴拓さんは、直感的にそう思った。建物の外に出てみると、地面が割れており、その隙間からは水が噴き出していた。 

「このまま地球がぶっ壊れるんじゃないか」

経験したことのない揺れと不気味な町の様子に、そう思わざるを得なかった。そして、みなとやに居続けるのは危ないと感じ、余震が続く中で建設されたばかりの小学校に避難した。この時、津波が来ることは少しも頭をよぎらなかったという。

姿を変えたふるさとをすぐそばで見てきた貴拓さんにとって、この松川浦という地はどのように見えているのだろうか。そこで、ふるさとという言葉に、どのようなイメージをもっているのかを聞いた。

「土地は土地で愛着はあるけど、ふるさとって人間関係の方がでかいんじゃないかな」 

とりわけ、3.11の後は ”ふるさと≒人間関係” を実感したという。未曾有の震災で誰もが途方に暮れたからこそ、松川浦に住む人々の繋がりがより一層顕わとなった。皆で被災の困難を乗り越えようと助け合い、復興への足取りを模索していく中で、ここ松川浦に住んでいて良かったと感じたそうだ。 

ホテル飛天のロビーでインタビューをさせていただいた


美味しかったよ!が原動力に、真心尽くす今日の一品

飛天のお土産コーナーにはあおさの加工品が並ぶ。「あおさは(松川浦の)漁業者の中で1番のトップランナーだから、今はそれを一緒にやりたい」と貴拓さんは語る。 

震災前の福島はカニやフグの水揚げが盛んで、それを目当てに遠方から足を運ぶお客さんも多かった。しかし、現在はそれらの漁獲量がかなり減ってしまった。東京電力福島第一原子力発電所の事故により、操業する海域や日程を制限したり、獲った魚の放射線量を調べたりする必要があったからだ。 

「確かにカニやフグほどの目玉ではないけど、あおさの加工品はお土産にピッタリ」 

加工品をよく見てみると、パッケージに「すてっぱず松川浦」と記載されている。すてっぱずとはものすごいという意味の浜言葉であり、貴拓さんはあおさをPRするためにその団体を仲間とともに創設した一人である。

そして、品質が良く、日持ちがするあおさの商品は、お客さんに喜ばれるそうだ。定番の「あおさのつくだに」やニンニク風味が食欲をそそる「かけるあおさ」など、ごはんのおともにピッタリの逸品である。やはり、貴拓さんは強靭な人だ。どんなピンチもチャンスに変えてしまう。 

飛天ではその時期ごとに旬の食材を活かした、味わい深いお料理を提供している。あおさを茶碗蒸しの餡に入れたり、ジェラートに混ぜたりというように、創意工夫を凝らした品々を考案している。さらに、新鮮なお刺身や相馬牛の陶板焼きも味わえる。

「美味しかったよ!とお客様から感謝してもらえるから、朝から晩まで飛天にいられる」

そして、ふっと笑みを浮かべながら一言。

「じゃないと、やってられないよー笑」

自宅は飛天の近くにあるが、飛天の代表取締役になってからはずっと単身赴任の状態だ。気さくで朗らかな雰囲気が溢れる貴拓さんの人柄とは裏腹に、一日で何十人ものお客さんを抱える頭首としての覚悟が伺えた。 

忙しい仕事の息抜きになるのは、家族も従業員も一緒になってお酒を飲みながらご飯を食べるひとときだ。貴拓さんはよくホテルの厨房に立って手料理を振舞うらしく、気になる得意料理はチャーハンだという。中華鍋を用いて強火で一気に仕上げるチャーハンは、皆から好評だと少しはにかみながら教えてくれた。 

ホテル飛天の食事は華やか


貴拓さんの瞳に映る、100年後のホテル飛天

飛天には老若男女問わず、県内外から沢山のお客さんが訪れる。
「うちには宮城や山形、それに加えて関東圏からも来てくれるけど、やっぱり近くの人たちにもとても支えられているね」

特に、地元の農家さんは田植えや収穫を終えた後の疲れを癒しに、たびたび飛天を訪れて来るのだそう。

「地元の人にね、いつも使ってもらえるような宿でありたい」と語る貴拓さん。商売で一番難しいのは値付けだというが、気軽に手が届く宿としてお客さんに温泉やお食事を楽しんでもらいたいという切実な想いを話してくれた。 

人生100年時代の今日。
貴拓さんはこれからの飛天をどう思い描いているのか、そして100年後の飛天がどのような旅館であってほしいのかを尋ねてみた。

すると、「旅館なのかな、旅館じゃないかもしれないね」とすぐに答えてくれた。全く想像していなかった答えに戸惑っていると、「だってさ、人間が減っていっているという話があるでしょ」と貴拓さんは話を続けた。

人口減少かつ少子高齢化が極まる現在、これまで飛天をよく訪れていたシニア層や団体客がこれからも来てくれるとは限らない。そんな先見の明で、将来的には広い空間や温泉を活かした養老施設への転用も視野に入れていることを教えてくれた。 

時代の流れやお客さんのニーズを掴み、変化を恐れず突き進み続ける飛天。そんな飛天の挑戦とその先頭に立つ貴拓さんから目が離せない。

すてっぱず松川浦のメンバー(左:管野貴拓さん)

管野 貴拓さん

ホテル飛天 代表取締役。福島県相馬市出身。「浜の駅 松川浦」の食堂「浜の台所 くぁせっと」代表でもあり 、「松川浦ガイドの会」でも活躍 。「松川浦出身」と言葉にするほど、松川浦をこよなく愛する。実家のホテルみなとやの専務を経験後、地元からの人望の厚さにより抜擢され、ホテル飛天の経営を引き継いだ。持ち前の明るさと人柄が求心力となり、松川浦の旅館事業者、漁業者たちとともに 、浜を盛り上げる一役を担っている 。

インタビュアー・執筆
横山 心叶
立命館大学 理工学部 3回生


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