その時、恋を知らなかった。
ベランダから見る夕焼けの空はいつもと分からないのに、どうしてこれを見る時はこんなに気持ちが落ち込んでいる時なのだろう。
記憶は、感情とワンセットで覚えるという。だとしたらこの苦しみや切なさが、茜色の空に重なって、いつかこんな綺麗な世界も嫌いになってしまうのか。
未だに、忘れられない人がいる。
もう何年になるだろうか。
初めて逢ったのは中学一年の頃。
あの子は学年で2クラスしかない同学の、
別のクラスの子だった。
特に取り立てて可愛いわけでもなく、
本が好きな目立たない子だった。
友達の友達で話すようになり、みんなはあの子の事を「普通の子」と言っていた。何なら、少しシャイで、自分からは馴染めないタイプだ。
しかし、そうはみえなかった。
あの子は、自らそう仕向けているようにみえた。他人と距離を取り、どこか冷めた目で人と接している。
なのに話し掛けるとコロコロと笑い、くだらない冗談を言った。まるで本当の自分を隠すみたいに笑顔を生み出す。
いつの間にか、時々彼女と話すようになった。
もっぱら本の事だ。
しかし彼女は学校に来る回数がとても少なく、いつも無断欠席だった。二年になる頃、嫌いなクラスメートの話が出た時、彼女はぽつりといった。
「嫌いなら殺してもいいと思うよ」
思っても見ない言葉に、ごくりと息を飲んだ。
「殺すのはよくないよ」
「そうかな」
至って平穏な生徒を装いながら、彼女はどこか狂気をはらんでいた。それが何故だか不安を覚えて、そんなこと言ったらダメだよ、と返事をして困った顔をすると、また屈託のない笑顔を見せた。
いつも、放課後は体育館の入り口の階段に座って何時間も話した。学校のこと、友達の事、好きな本の事、家族のこと。
彼女は、内緒だよ、といって自分の家族の事を話してくれた。
父親が再婚し、新しく妹が生まれたこと。姉が自分を残して家を出て行ってしまったこと。家族の中で、孤立していること。
だから家には帰りたくないのだそうだ。
時々、こんな自分を消してしまいたくなるという。誰からも必要とされていないから、と。
だからそんな時はいつも「そんなことないよ」と返した。気の利いたことも言えなかった。だけど少なくとも自分にとって彼女は、必要な存在だった。
放課後になるといつも二人で過ごした。
帰り際になると彼女はよく、家に帰りたくないな、と、はにかんだ。
夕方が夜になってしまう前に
同じ道を歩き、自分の家を通り過ぎても、少しでも遠回りして彼女を送った。
そして同じ曲がり角でいつも、さようならをした。
三年になり、進学の話で持ちきりになるクラスメート達とは違い、彼女はどんどん学校に顔を出さなくなった。どうやら、新しい友達が出来たようで、その人達とばかり時間を共にしているようだった。
久し振りにやってきた彼女は顔や、腕に目立たないように絆創膏や、髪を垂らしていた。来たのも午後からで、自分以外に、特に彼女を気にした人もいなそうだった。
「どうしたの、これ」
帰り道、体育館裏の校門の側で彼女を捕まえては、親指で長い前髪をどかした。聞きながらも、原因は分かっていた。父親だ。
そこにはうっすらと青痣を蓄えていた。
「転んだの」
使い古された嘘。悲しげな笑みを落としてから、邪魔くさそうに手を払いのけた。そんな嘘をついてもお見通しだ、と、強い瞳を返すことしか出来なかった。
彼女の白い肌に浮かび上がる傷跡は、一見悍ましく、自分が生きている安寧とした日常から逸脱した存在だった。なのに、どこか美しかった。
その時、どうしようもなく、世界に腹が立った。
今にもぶち切れて、彼女を殴る父親だとか、彼女を捨てていく姉だとか、見てみぬ振りの全ての人を全員ひっくるめて、ボーリングのピンみたいにパッカーンと破裂させてやりたかった。
でも、ただの中学三年生には、何も出来なかった。
彼女もただの中学三年生で、親だとか、世間だとか、世界だとか、そんなものに刃向かう力は端から持っていなくて、そう思ったら何故だか無性に泣けてきて、いつものようにはにかむ彼女の前で、紺色の制服の袖を何度も目頭にこすりつけた。
何で君が泣くの、と頭を撫でる彼女の手は優しくて、初めて、こんなにも自分は無力なのだと知った。
その時私達は、お互いを慰め合うように唇を重ねていた。
友情と恋愛の境界線は何処だろう。
恋と愛の境界線は何処だろう。
女の子が女の子を愛してはいけないと誰が決めたのだろう。
そんなもののラインなどわからないくらいに私達は幼子で、私はただ、笑いながら泣いているあの子を抱き締めたかっただけだった。
どうしようもない感情と現状を抱えたまま、季節は春になっていた。
私達は高校に入り、彼女と連絡を取ることが段々と少なくなった。そしてとうとう彼女を見る事は、なくなってしまった。
私は、彼女が好きだった。
だけど、何もかも捨て、全てを掛けて彼女を守りきれる程の力も、勇気も持ち合わせて居なかった。
きっと彼女も少なからず、同じ気持ちでいてくれたように思う。だからこそ、彼女も私から離れていったのだ。
夕焼けを見ると、あの子の事を思い出す。