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母が死んだ日の事

いつか、何処かにこの日の事を書き記して起きたかった。記憶が薄れていく前に、今が1番気持ちを吐き出せそうな気がしたからまとめて置く事にする。

母が死んだ日、私は5歳か6歳。
正しい年齢は覚えていない。
私は母が怖かった。彼女はいつも私達姉妹に怒って居たから。
よく、私達姉妹は眠れずに二階の部屋でひそひそ話をしては一階から母が怒鳴り声で駆け上がってきて怒られた。
それがとっても怖くて、いつも震えてたのを覚えてる。父は優しくて、怒ってばかりの母とは対照的に甘やかしてくれた。日曜日にまた怒られて泣いている私にお菓子をくれた日、「お父さんは優しいのにお母さんは怖くて嫌い」って思っていた。馬鹿だな。

そんな母は少しだけ恰幅がよく、健康的な体型をしていた。髪がくせっ毛で、私と同じ少し薄い黒髪。口元にほくろが一つ合って、とても妖艶な雰囲気がある。
料理が上手で、特技は手芸で、内職で色々なものを作っていたし、私達のためによく洋服や髪飾りを作ってくれた。
特に編み物が得意で、かぎ針や棒編みでセーターを編んでくれた。可愛い女の子の模様が編まれているピンク色のセーター。くまちゃんのベスト。マフラー、手ぶくろ。その他色々。
私はチクチクするのが嫌で、そのセーターを着た記憶がない。
いつも母のタンスの一番下の引き出しに入っていて、そこを開ければ見ることが出来た。
何故、着なかったのだろうと今でも思う。

そんな母が、入院する事になったのはいつ頃だったのか分からない。
きっと私には理解できないからと細かい説明をされなかったのだと思う。
「お母さんは入院するからね」
と言われて、そうなんだ、位の気持ちだった。
いつも怒られてばかりだったから少しくらい母が居なくても平気と思った。

母は、どうやら胃癌だったようだ。
一部摘出して、そしてすぐ転移が見つかり、全摘出となった。
都会の病院はとても綺麗だ。
週に1度「お母さんに会いに行くよ」と言われて、私はわくわくしていた。
車に乗って、自分の街とは全く違うビルばかり立ち並ぶ病院に急ぐ。
何度も何度も、何度も通う間に、5歳の私でもこの高層ビルの病院の、母の部屋の場所を覚える程になっていた。
5階でエレベーターを降りて、右手に駆け出す。また右に曲がると広い廊下があり、突き当たりにレバー式で開く1つの窓があって、そこから丁度よく画角に収まった東京タワーが見える。とても良い眺めだ。その左側の扉を横に引く。
子供には少し重い大きい扉が全て開ききると、6人の大部屋の1番手前、右側が母のベッドだ。

もう何年も前の事なのに、そこに座って母が笑いかけてくれる情景が頭から消えたことが無い。

病院の下のおしゃれなお菓子屋さんで、1枚だけを丁寧に包装されたパンダの形のクッキーを選ぶ。とっても可愛いからお母さんに渡したら喜んでくれるはずだ。
今日はお母さんが好きなチューイングキャンディーを持っていく、一緒に食べて美味しいね、と笑い合う。お母さんが早く治るようにと小さい包み紙を一緒に折って鶴を作った。
今日は病院の中のお店で買ったピックアップと言うお菓子。売店のお姉さんに、お母さんに渡事を教えたら「きっと喜んでくれるね」と言われて嬉しかった。
いつも、お見舞いに行く前は何か一つ美味しいお土産を選んだ。

でも段々母は、そのお土産が食べれなくなって行った。
健康的で、笑顔がとっても似合う母の身体はどんどんやせ細っていった。
今思うと、胃を全摘出しているのだから仕方がない。はつらつとした笑顔は、力無くうっすらと微笑むばかりになっていた。
あんなに怒鳴っていた母の声はもうずっと聞いていなかった。

「食べたかったら食べていいよ」
とある日、私たちが来た時間は母の昼食の時間だった。母はお膳にほぼ手をつけていなかったのだけど、私がデザートのメロンを見ていると、そう声を掛けてくれた。
姉は興味がないようだった。父は大抵、病院に着くとまず主治医の先生と話していたようで私達はいつも病室に先についた。

私は「いいの?」と聞き返して母の膝に乗った。銀色のスプーンで柔らかい果肉をすくって、食べさせてもらう。
今思うと家でメロンを食べることはそうそうなかったように思う。我が家は果物が好きだったけれどメロンは高かったからあまり食べた記憶はない。
とても甘くて、とてもとても美味しかった。
「美味しい?」と聞かれて、私はこれでもかというくらいに笑って「うん」と答えた。

それがいつの事だったのか、全然覚えていない。1番幸せな時の、1番最後の記憶かもしれない。

それ以降、母と話をした記憶が無い。
それ以降、母が笑っていた記憶が無い。
それ以降、母の意識がある記憶が無い。

いつもの病院、いつもの病室、でも、そこに見慣れた母の姿はもうなくて、身体中真っ黄色の皮膚の、宇宙人みたいな人が横たわっている。

黄疸が出ていたそうだ。

「お母さんはお薬で寝ているの」
と祖母か誰かが言った。私には黄疸が何か分からなかったし、お母さんは今日も寝ているんだ。と、思ってつまらなかった。
何度来ても、お母さんはいつも寝ていた。
前みたいにお菓子を一緒に食べられなかったし、お話も出来なくて、私はずっとつまらなかった。

ある日、家で姉と遊んでいたら父が「出掛けるぞ」と言った。母に逢いに行く、と言う。
いつもは決まった日にちで、しかも午前中にお見舞いに行く事が多いのに、その日は夜になりそうな夕方で、突然の事で私は喜んでいた。

でも、お土産は買って貰えなかった。
とても急いで病院に向かう。
お父さんもお母さんに早く会いたいのかもしれないと思った。
病院に着くと車を停める間に私達は走っていった。それはいつもの事で、道は完璧に覚えて居たからそこでいつも父を置き去りにし、私達は病室へ、父は先生に会いに行く。
いつもと変わらずエレベーターを降りて、右手に向かう。また右に曲がると広い廊下があり、その左側の扉を横に引く。
「お母さんっ!」
元気いっぱいに叫んだ。
でもその声はどこにも届くことはなかった。
締め切ったカーテンの中に、いつもは見ない先生と看護師さんが真面目な顔で立っている。その横で、祖母が泣いていた。
母はこの間来た時と同じように、ベットに横たわっている。この間来た時と同じように真っ黄色の肌だったし、この間来た時と何もかも同じだった。
遅ればせながら父が走ってきた。
無論、病院は走ってはいけない。
父とて例外ではないはずなのに、小走りで掛けてきた姿が何となく違和感を感じていた。
奇しくも皆が棒立ちとなって狭い1箇所に集ままる。私達姉妹はまだ、訳が分からない。
「○○時、○○分、ご臨終です」
苦虫を噛み潰したような面持ちで、先生が呟く。
どういう事?ゴリンジュウ?
お父さん?どういう意味?

振り返って父を見上げたら、父が、泣いていた。
父は気丈な人で、泣くことなんか絶対にない人間だった。それまで父が泣く姿をたったの一度も見たことがない。
どんな事があっても弱々しさを微塵も感じさせない人だったので、私はその姿を見て驚いた。
父が、泣いている、これは凄い事が起きたに違いないという漠然とした恐怖だけがあった。
横を見ると姉も何かに勘づいているようでじっと母を強く見つめていた。

「お母さんは死んじゃったの」
祖母がそういうけれど、現実味がない。
だって母はそこにいるし、この間来た時と何も変わっていないのに。
私は何処か浮き足立っていて、変な感覚に襲われはしていたが現状を理解してはいなかった。みんな何で泣いてるんだろう。お母さんは寝てるだけなのに。と思っていたし
「お母さんに触ってみて」
と、言われて母の掌に触れた時も、まだほんのり暖かくて、ほら、寝てるだけでしょ、という気持ちの方が強かった。

あの時が母に触れる最後になるなんて、私は知らなかった。知っていたなら、もっとちゃんと握り締めて、さよならが出来たのにと今は思う。これは今だから言えることだけれど。

みんな泣いている。
これは大事だ。でも私には分からないんだ。
なんでみんなが泣いているのか。

そう思って、病室の扉を開けて廊下に出ていた。いたたまれなかった気持ちもあったし、理解に及ばない事が起きすぎて私の頭の中は真っ白だったのだと思う。
だから全然涙も1粒も出なかった。

その時の情景が今でも脳裏に浮かんで離れない。
真っ白い病室、真っ白い壁、広い廊下。
夕方の西日が、突き当たりの1枚の窓から強く差し込んで、眩しくなった。
左を見上げると、真っ赤な東京タワーがキラキラ輝いている。
なんて綺麗なんだろうと思った。
今まで気が付かなった。
東京タワーってすごく綺麗なんだって事。
今思えばあれは、東京タワーが光っていたのではなくて、夕日に重なって紅く燃えていたのかもしれない。
でも、今まで見たものの中で1番綺麗だった。

それが私が覚えてる母が死んだ日の1番最後の記憶。

あっという間に告別式が行われて、私は真っ黒いフリフリの可愛い服を着た。
髪も赤いリボンで結んでもらった。
姉も同様に同じ服を着せてもらって、手を繋いで大人しく隣に座っていた。
母は綺麗にお化粧をして貰って、黄色い肌とはお別れし、真っ白い綺麗な箱に入った。
葬儀壇にたくさんの真っ白い百合の花が添えられていた。
今思うと母の名前が「小百合」だったからではないだろうか。あくまで想像でしかないけれど。

私は親族の席に座って、きょろきょろ辺りを見回す。ここ連日、初めての経験ばかりでそわそわしていた。

葬儀が始まって1人づつお焼香していく。
みんな知らない人ばかり。
知らない人がやってきて、知らない人が帰っていく。

その中で大声を上げている女の人が1人いた。
眼鏡姿で中肉中背、肩くらいの髪。母と同い年位のそのお姉さんは人の目なんか気にもしていない風に泣き叫んでいた。
きっと母の友人だったのだと思う。

母はまだ30そこそこで、本来なら死ぬなんて想像も出来ない年齢だっただろう。

私は、大人が狂うほどに泣いているのをその時初めて見た。
彼女は嗚咽を漏らし、何とか立ち上がろうとするけれど膝から崩れ落ちていた。
母の名前を小さく呼んでは苦しんでいた。

その姿が、幼い私の心には痛烈ではっきりとした気持ちに繋がったのを覚えてる。

「母は、もう戻ってこないのだ」と

人が死ぬということを理解したのが何時だったか全く覚えていない。
もしかしたらこの時だったのかもしれない。
大人がこんなに我を忘れて振り乱して泣き叫ぶ出来事。母は、この世から消えてしまったのだ。
母には、もう逢えないのだ。

それが分かった瞬間、私は物凄く悲しくなって、冷たいパイプ椅子の上で姉の手を握りしめながらわーんーわーん泣いた。
張り詰めていた糸がピンと切れるみたいに涙腺が崩壊してただひたすらに泣いた。
姉は私の手をぎゅうっと握っていた。


東京タワーに今でも何かの胸の鼓動を感じる事が度々ある。
忘れられない思い出は感情とワンセットになって私の中に残り続けている。
あの茜色の東京タワーも、三角に切ったメロンも、私の中で大事な1つのキーになっていて、時折胸を焦がす。

でも自分の中で、時間の流れと共に風化もしていく。
ただ、忘れたくない。
そんな気持ちから、初めてこの記憶を可視化してみようと思った。

ある日突然、人は消えてしまう事がある。
だから、私はここに居ました、というものを残して置きたい。

読んでくれて有難う。

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