Rothko Room
数年前の話です。LondonのTate Britainでたまたま迷い込んだRothko Roomが気に入って、それから何度も足を運びました。しかし前回行った時はRothkoさんお留守で、その時はどこかに出張中かなと思っていましたが、どうやら今イギリスの地方Tateにいるらしい。それからもRothkoさんに会いたくて時々ネットで検索したりしていたら、Rothko RoomがTate以外にもあること、そしてそのうちの1つが日本にあることを知りました。って言うかカタカナ表記はロツコじゃないの?日本語って本当難しい。とにかく日本でRothkoに会える、しかもRothko Roomと言う形で会えるなんて段違いです。その美術館自体が近々閉館になると知り、ひとまず行ってきました。
川村記念美術館のロスコの部屋は思ったよりも小さめで、8角形の部屋がなんだかしっくりとくる感じ。Paris Orangerieのモネの部屋を思い出させる心地よさです。ただ、やはり人が多い。日本の美術館にしては少ない方だと自分を言い聞かせつつも、ロスコの部屋に10人もいてはゆっくりじっくりとロスコに向き合うことはできません。中には同伴者とおしゃべりしながら鑑賞される方もいて。まあこれは予想通り。今回は耳栓を持参し、気合を入れてきたのです。しかし遂にはガイドツアーでドカドカと人が入ってきて、私はもうすっかり消沈して退散しました。やっぱり日本の美術館はタフです。諦めきれずに15時過ぎに再び行ってみると、なんと今度は一気に人が少なくなっていました。部屋にいる人達も、ソファーに座ったり、ロスコとの適度な距離を探してみたり、思い思いにロスコを満喫しています。
ロスコはやはり「感じる」。私はまずは見るとも見ないともなくロスコのなるたけ近くをただただぐるぐると歩きます。しばらくすると私の方で無防備にロスコを受け入れる準備が整ってくるのです。川村記念美術館のすごいところは、作品との物理的距離が近い。環境テロとかで美術品が襲撃される昨今、これでいいのかって心配になる程に近い。そして気に入ったロスコの真正面でソファーに座って、ぼーっとロスコを眺める。私の方でも緊張が溶けてきて、絵の前に立つ人のシルエットも絵画の一部のようにとれなくもない。8角形の部屋のお陰で両脇のロスコも綺麗に視野におさまって、私はロスコの部屋にどっぷりと浸かることができました。そうこうしているうちにお気に入りの1枚が見つかったら、今度は真正面に立って、じっと見つめる。その頃には脇にあるロスコも、後ろにいるロスコも、すでに私の感覚の中にいて、そちらを見る必要がない。一方でお気に入りの1枚はどんどんと私の中に入ってきて、さらにもっと私を揺さぶってくるのです。
川村記念美術館では現在西川勝人さんの作品を企画展示中。彼は、色は光の波長である、と言ったそうだ。そういえば我々の皮膚も色を感じることができるらしい。赤外線が体を芯から温めるように、ロスコの赤は物理的に私の中に入ってきて私の無意識を揺さぶっているのかもしれない。私はロスコが残した死の予感から始まる7つのコンセプトをたっぷりと感じようとする。preoccupation なので、予感というよりはすでに存在する、と言うか、しっかりと根付いている、と言うか。とにかく根底に脈々とそしてはっきりと流れる闇。でも私がロスコの赤にべっとりと貼り付いていると感じる闇はどうも死とはしっくり重ならない。言葉にするならば絶望というのが近い。救いのない、終わりのない絶望。でも安心感があるのです。ロスコのレシピには10%の希望や遊びやその他のコンセプトが含まれていて、それがうまく機能しているのかもしれません。死という世界の終わりと言う一点ではなくて、闇は静かに流れ続けてかつ未来に向かっているように感じるのです。
ロスコに向かい合う時は、お寺とかモスクとかにいて、マリア像や仏像に向き合っている感覚に似ている。自分の状態によってロスコの絵から受ける印象は変わるのかもしれない。テキサスにRothko chapelというのがあるらしい。ロンドン、千葉、ワシントンに次いで4つ目のロスコの部屋とも数えられている。信仰心のない、それなのに宗教施設で静かに座っているのが好きな私としては、ぜひ行ってみたい。残念ながら台風の被害で今は閉館しているらしい。好きなものはちゃんと調べて、会いに行ける時に行っておかないとダメですね。川村記念美術館が閉館する前に、もう一度ロスコに会いに行こうと思いました。平日15時以降を狙って。