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ワーキングホリデーでの出来事(8~9ヶ月目、シドニーへ。無力と限界を感じる日々)

※トップ画は、自分の名前すら、カフェで伝えられない英語不自由で準備不足だった自分への戒めです。what's your name? に対して、ah~、、、shoicihiroと言ったが故、achiになった模様です。。。

ミートファクトリーでの労働を終え、向かうと決めていた先は、ゴールドコーストではありませんでした。

シドニーへ向かいます。

その理由は、

パン職人になれる確率が高いであろう、都市へ向かおう。

と、ミートファクトリーでの生活中に決めていたからでした。

オーストラリア滞在2ヶ月目時、ゴールドコーストにあるお店には履歴書を配り終えて、全店舗、無反応だったことや、
憧れの店、ヤタラパイにもバスと電車を使って、何度か働かせくれないか頼んでも、全く感触がなかったことが、ゴールドコーストで仕事を見つけることが難しいのでは、と、弱気にさせていたのも理由です。

なので、シドニーがパン職人になる最短コースだ!

と導き出したんです。

そして、妄想していた通り、
ミートファクトリーで働いて、肉にも熟知している(と思わせられる)人材だからミートパイも作れまっせ。

なんてアピールすれば見つかるでしょ!と、ミートファクトリーをやりきったという変な自信を兼ね備えて。。。

ほんと、安易で甘えのある考えで行動していました。

そして、全く、甘くない現実がここでも。

人口も多い=競争率も高いと導けなかったようです。家賃も高い街をわざわざ選んで、仕事のアテもなく、過信だけでよく向かったなと思います。

結果は、2ヶ月目と同様、

シドニーでもパンの仕事を見つけられませんでした。


メルボルンからシドニーへ向かい、バックパッカーホテルで数日過ごした後、とあるマンションの一室でベトナム人男性とシェア住まいしてました。

当時$175/週の住まい。
キッチンとトイレ、浴室は他に住んでるマンションの方たちと共有だったため、
冷蔵庫はいつも満杯。使われても使っても分からないカオス状態。。。
トイレとシャワーは現実を受け入れるのに時間がかかるかもしれません。

彼は母国に住む家族とオーストラリアへ移住するため、単身で乗り込んできたと話していました。
今思うと、仕事を見つけるための意識が違ったなと痛感します。
お互い「夢」のためにオーストラリアへ来ているのに、自分の必死さが彼に負けている気がしているとは当時も感じていました。

彼と連絡先を交換することはしなかったけれど、すごい良い方でした。
「英語がイマイチで受からなかった!」「君は英語大丈夫?毎日勉強しておくほうが良いよ」
とか、
「君の方はどうだ?がんばろうね」
と、毎日話しかけてくれました。

「採用されたのに、現地人を見つけたから不採用と言われたぞ。差別だ!」
とか悔しがっていたこともありました。
「負けないでお互い頑張ろう」
と鼓舞もしてくれました。

彼が仕事の求人を必死でパソコンで探している間、僕は不安で、日本の友人に連絡をとったり、景色の良い場所でボーッとしたりと、現実逃避をしていることも知らずに、、、毎日進捗を共有してくれたり、アドバイスもしてくれて、少し心がチクリとしたり、焦ったりしていました。

彼は時折寝落ちしてました。起きるとまた仕事探しにパソコンと睨めっこ。。。

(ほんと僕は嫌なやつだなと思いますが)仕事の見つからない彼を見て少し安心していた自分もいました。

シドニーの北からパン屋を巡り、南の端のまで、断られまくる日々。
そしてFleet Stepsという、シドニー南端にある眺め良い場所で黄昏れてました。


自分はというと、やっとこさ、トライアルにつなげてもらったドーナツ屋さんでのチャンスも緊張のせいか、速攻計量ミスで不採用。。。

(※トライアルとは、面接とは別に現場での作業が採用されるか評価する、試用期間労働みたいなものです。選考中とのこともあって当時は無賃でした。

日本人のいらっしゃったカフェベーカリーで、その方の面接当日のありがたい後押しもあり、トライアルのチャンスを得るも、採用に移行されないまま、ドレッシングを作る日々が続きました。


そんな生活を送っていると、ついに彼が仕事を掴みました。
「家族と住めるから引っ越すんだ!」
と喜んで、そして、あっという間に去っていきました。
僕もその瞬間だけは喜びを共感しましたが、すぐ焦りの気持ちだけになっていました。

さらに、彼が出て行ったことで、2人暮らしの部屋を1人で住むことになってしまい、家賃が負担が重くなってしまいました。その間もトライアル期間ということもあり無収入。お金が底につきそうなります。

電車賃すら払うのがしんどくなり、せっかく雇用されるチャンスになるかもしれなかったカフェベーカリー。でもいつになるかわからない日々。

僕は賭けに出ました。

次の週のトライアル依頼を兼ねたシフト希望連絡をしないことにしました。

何かしら、向こうから心配の声とかくるかな。もしかしたら、僕のこと欲していないかな?という、微かな期待を込めた、メンヘラのような音信不通作戦。

・・・

向こうからの連絡は一切なく、終了。という結末でした。

気付きました。

英語が喋れない人材の代わりはいくらでもいることを。

いつベーカーになれるかもわからない、日本人のスタッフのいない日の言葉が通じない苦痛(甘えがある弱すぎる自分、、)、ドレッシング担当で採用されてこのままパンが作れないままVISAが切れるのかな。。。という日々葛藤する心労には負けていました。

その後、徒歩で履歴書を配り歩くも、
受け取った瞬間、履歴書を捨てられたり、

「隣のジャパレス(日本料理屋)へ履歴書出しにいけよ。」
「お前だったら母国語喋れない外人雇うか?」
「VISAの期限あるやつ育ててどうすんだよ。」
「まず専門学校行ってキャリア積めよ。」
「車ないのに、どうやって来るの?免許取ってからこいよ。」

まさに。としか言えない、というか、「その通りです」とその場で返答したこともある、どストレートな言葉を言い放たれました。
そして気づいたんです。
自分がいかに準備不足の勘違い野郎だったかというのを。

労働的にタフだったミートファクトリーでの時間よりも、
シドニーでの時間は、自分自身を否定されて、夢をも打ち砕かれて、オーストラリアに向かったことがそもそも間違っていたと思わせられるほど、精神
的にタフな時間でした。

面接で断れるのが怖くて朝からお酒も飲んでました。夜も惨敗でお酒を飲んで現実逃避。
やばいでしょ。って日本の友人にきっとメンヘラ連絡をしていたから残っている写真です。。。


$1缶詰にパスタを和えて食べて食費も抑えてました。
お酒だけはやめれなかったと思うと相当やばいモードだったと振り返れます。。。


そして本気で帰国を考えました。


夢なんてない、というか、自分が馬鹿だった。という気持ちになってました。

日本の大手メーカーで勤めていたキャリアが通用すると思っていた自分。
実際は、
「そのメーカー知らないというか、どうでも良い」
と言われる始末。

自分が日本で築いた日本でしか通用しない履歴書を元にまた日本で働こう。と心を整理というか諦めて、友人知人に帰国をする意図するような弱音な連絡を送りまくってました。

そんな時を過ごして、最後は余暇を楽しもうとゴールドコーストに戻ることにします。


最後に現地での仕事探しの小さなアドバイスです。

日本で働いていたキャリアなんて、全く生かされないと思います。
世界的企業であるか、海外でも通用する資格がある職種でない限り。
仕事はなんでもよくて、単純に生活を楽しむのか、仕事は選びたいのかをだけは、日本にいる間に気持ちと頭を整理して準備されてから、期間制限のあるワーキングホリデーで入国することをお勧めします。

最後といいつつ、最後の最後に余談ですが、

実はシドニーでサワードウブレッドを作れそうなチャンスに巡り合ってはいました。

シドニーでパン屋さんを経営されている日本人の方に出会い、たびたび相談に乗ってもらっていました。
その方が以前勤めていた現地のパン屋さん(すごく有名なお店でした)に口利きしてもらい、面談をさせてもらえたんです。

そして、面談させてくれたパン屋さんのボスから、

「パイを作るポジションは空いてないんだけど、、、サワードウ、作ったことある?どう?興味ある?」

と言われました。

その時は「サワードウ?」って感じでしたし、
意地でもパイを作りたかったので、

「ミートパイ以外は興味ないな〜」

って断りました。
今の自分に怒られるぞ!!と自分に言いたいほどの世間知らずでチャンスに気づかない人間だったと思います。。。

結局、車もないのにどうやってくるの?問題もあって、そのお店でトライアルのチャンスすら得られず終いでしたが、この時ミートパイを諦めて、めちゃくちゃボスに粘って雇用されていたら、、、なんて思うと、ほんと違った人生ですよね。

人生、不思議な縁で生きていくものだと感じています。

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