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北新地ホステス時代

音響会社の現場と披露宴演出の現場に行く傍ら、生活費を安定させる為、引き続き夜は北新地のラウンジでホステスもやっていた。

全く正反対の仕事

昼間、ドロドロになりながら重い機材を運び、先輩から罵声を浴びながら設営した後、一旦帰宅してシャワーを浴び、化粧をして出勤するのだ。
それはそれでバランスが取れていた。

が、突然その時はやってきた。

音響会社の方の仕事でやらかした。
いや、仕事でやらかしたと言うより、寝過ごして遅刻をしてしまったのだ。
朝早い現場の時は、前の夜は仕事を入れなかったり睡眠時間も確保するなど、ちゃんと気を配っていたのだが、連日続く遠出の現場があった際にやってしまったのだ。
1度の失敗で1つの現場が出禁になってしまった。
また、そのタイミングで披露宴事務所の方も会社を畳むとかで全員仕事を失うことになった。

あれよあれよという間に、私は夜のお店しか職場が残っていなかったのだ。

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しかも、またそのタイミングで長年務めていたお店のチーフが辞めることに。
そのお店には、チーフなりママなり、まとめ役を必要としていた。
私は水商売は、掛け持ちで融通が効くからという理由でそのお店に入ってやっていたのだが、知らぬ間に女の子の中で10年選手の1番の古株になっていたのだ。
必然的になのかなんなのか、
翌週からママと呼ばれる人になっていた。

なんでや。


決して、器量がいいわけでもなく、男性を魅了するトークに長けているわけでもなく、スタイルがいいわけでもない私がお店のママとして役目を果たすには・・・

1. 女の子達に頑張ってもらうしかないので、頑張った人には特別ボーナスを定めるなどをしてシフトを組み直した。
2. お店にいる女の子のタイプとお客様のタイプを徹底的に見極め、お客様に満足して帰ってもらうよう、且つ、女の子からもなるべく不満が出ないようにテーブル配置。
3. お店全体を見渡せるように、私はなるべくカウンター内で作業が出来るように、カウンター客を一人で捌けるように努めた。
4. トークに自信が持てない私は、デュエットなど一緒に歌を歌ったり、お客様の好みの昔の歌を一緒に歌うなどをして音楽の力を存分に利用した。
(時にはイベントスタッフをやっていた音楽イベントのチケット購入してもらったりもしていた。)
5. 最後の砦。忙しく1人で団体客をもてなさないと行けない時には、マジックを披露していたこともあった。(趣味で過去に一時練習していたことがあるのだ。)

そんなこんなで2、3年。
ママ業というよりマネージャー業的な役回りでお店を回していた時期があった。

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また、どうせホステスを本業にするならお金を貯める時期にしようと決心した私は、大阪梅田のど真ん中にある木造二階建のアパートの和室四畳半一間で暮らすことにしたのだ。
北新地のママがオンボロアパート(失礼)住まいである。
家賃1万2千円。もちろんお風呂は付いていない。共同トイレだ。

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引越す際、なるべく途中で挫折しないように部屋の中を思いっきりカスタマイズした。
神田川が流れてきそうな佇まいのアパートだが、私の部屋を開ければそこは近未来。

フローリングカーペットを敷き洋室に。
真っ白い壁紙を貼り、壁にはギターをかけ、買ったばかりのPCとPCデスク、寝具。そして、バーカウンター。
雰囲気だけはいい感じにしておいた。

どうせ、夜は仕事で寝るためだけに帰る部屋だ。

昼前に起きて、そのまま近くのスポーツクラブに行き、軽く運動した後にそこで汗を流し、外で食事をとってから1度帰宅して準備をして出勤。といった具合だった。

目標は1年間だったのだが、やってみたら案外行けたので1年行けたら2年も行けるだろう。と、ここには丸2年間住んでいたのだ。

お金も貯まったし、今となっては楽しい思い出だ。

つづく。

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さにぃ
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