『ナミビアの砂漠』を観た日

もう2ヶ月も前の話。とある友達と映画『ナミビアの砂漠』を観に行ったあの日のことが、いまだに忘れられない。映画のあとの波乱の放浪、公園での目覚め、世界に見放された朝の中央線…。最近になってそれら全てが、急に意味ありげな表情をしてこちらを見てくるようになったので、とりあえずいつか忘れてしまう前に、その時のことをここに記しておこうと思う。

実を言うと、僕も友達も『ナミビアの砂漠』を観るのはこれで2回目だった。映画に出てくるキャラクターたちがみんなあまりにも人間臭く愛らしいために、なんとなく彼らにもう一度会いたくなってしまったのだった。さらには、爆発しそうなこの気持ちを誰かに発散したい、というところもあり、1人友達を誘って新宿の映画館まで足を運ぶことにした。

この友達を呼んだのには、結構ちゃんとした理由がある。第一に、僕が個人的に彼女の書く言葉のファンであり、こういう折にもまた何か良い言葉をくれるのではないかと期待していたからである。第二に、彼女がなんとなく、映画の主人公であるカナに似ていると感じたからだ。彼女もまた、平気でタクシーの窓からゲロを吐いたり、タバコ吹かしながら自転車で坂を下ったり、わけもなく彼氏に急に噛み付いたりしそうな、ヒリヒリとした何かを持っていた。ここまで書いて、自分が友達のイメージダウンを助長しているかもしれないことに気がついたけれど、決してそんなつもりはないことを了承していただきたい。もしついて来れないようであれば、今すぐにブラウザバックして、まずはナミビアを観にいくことを強く勧める。話が少し逸れてしまったが、とにかくそんな友達と過ごしたあの夜のことは結果的に僕の心を強く揺さぶった。

さて、映画が始まるまでには少し時間があったので、新宿にある「らんぶる」というバカでかい喫茶店で暇を潰した。バブル期を想起させる豪華絢爛な店内でそわそわとケーキを食べながら、友達の話になり、音楽の話になり、最終的にはお互い好きなカネコアヤノの話になり、彼女の秀逸な歌詞の数々を言い合っているうちに、胸が熱くなって涙が出そうになってしまった。それくらい、あの時期は結構ナーバスになっていたのかもしれない。

映画の時間が近づくにつれ、友達は「絶対に寝る」などと言い始めたが、いざ映画が始まると、むしろ身体を前に突き出して、頬杖をつきながら夢中になって映画を観ていた。そんな変な人と、スクリーンのカナを交互に見比べながら、やっぱり似ているなあと感心する。カナが走り回れば、僕は勝手に嬉しくなり、カナの顔が次第にげっそりとしてくると、僕は勝手に悲しくなった。映画の解像度が上がったのはもちろん、それ以上に、僕はカナとカナの片鱗を持つその友達と、そしておそらく同じようにカナになり得る可能性を持っている自分自身にも同情していた。もう1人の自分が「同情なんかするんじゃねーよ」と言ってきたりもするので、上映後はなんだかどっと疲れてしまった。

その後のことはあまり思いだしたくないし、正直飲み過ぎてあまり覚えていない。電車で高円寺まで行き、大雨に降られながら公園や居酒屋を点々とし、2人ともふらふらになりながら、どこともなくひたすらに歩いた記憶。実に酷いものだった。ただ、公園で狂ったように致死量のチャミスルを喉に流し込む様を思い出しながら、僕らはあの日、多分カナになりたかったのだろうと思った。彼女のように、自由に、野生的に、無気力に狂ってしまいたい、という無謀な欲望が、あの時の僕らを掻き立てていた。

朝4時ごろ、やけに静かな公園のベンチで目が覚めた。気分は最悪だった。まだまともに動けない僕をよそに、友達は颯爽と「〇〇ちゃん家で寝るから行くね」と言って去っていった。昔、コロナで学校が長期休みに入ることが決まった日、まだ状況が把握できていない僕に、清々しく「バイバーイ」と言った隣の席の女の子のことを思い出す。その瞬間胸がギュッとなる。思えばあのあたりから、僕はずっとカナになりたかったのかもしれない。

仕方なくイヤホンを刺してフィッシュマンズを再生する。朝5時の柔らかな日差しとフィッシュマンズの相性は抜群だ。誰もいない高円寺を歩きながら、『ひこうき』で佐藤伸治が「飛んでった!」と無邪気に歌うと、少しだけ胸がスッとするのだった。

話はこれで終わり。あれ以降、カナに影響され過ぎる日常からは足を洗い、一度規則正しい生活を心がけようと決めて今に至る。真面目に地道に。それでも、あの日を境に何かが変わってしまった確信だけはずっとある。それが所謂「成長」なるものであって欲しいと、今は祈るばかりである。

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