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X怖い

最近

 最近、ツイッター(現・X)が怖くなった。何が怖いって、時間が喰われる。時間はすなわち私である。時間は私を形成し、私を今ここに存在させ、その先の文脈を形作る。我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか。その答えの一つは、我々は過去の時間から来て、我々は時間の産物であり、我々は未来の時間へ行く。
 自分でも何を言っているのかわからない。詩がつくりたいんじゃない。ただ、恐怖という感情に突き動かされているから、文章もこうして感情が籠る。
 脱線したがとにかく、Xをやっていると、自分が喰われるような心持ちがしてくるのである。

まんじゅうはこわくない


 怖いと言えば饅頭である。饅頭は、怖いといってもこちらが喰う側だ。だからこそ、落語「まんじゅうこわい」はギャグとして成立している。大量に用意されるという、嫌がらせされても、まんじゅうこわいの主人公は饅頭好きだし、最悪残せばいい。それが落語の聞き手もわかっているからこそ(さらに言えばまんじゅうなんか微塵も怖くないと思っているからこそ)、主人公の機転が面白く感じるのである。
 Xは似ているようで異なる。似ている点は、どちらも娯楽/嗜好品/サービスであり、自分から能動的にアクセスしなければ襲ってくることはないという点であろう。異なる点は、その中毒性である。SNSの中毒性は、もはや今更ここで語る必要はないだろう。まんじゅうの中毒性は寡聞にして存じ上げない。データがあるならだれか出してほしい。

Xの怖さ

 Xは怖い。正直、その中毒性は怖くない。時間が溶けること自体も、実はそこまで怖くない。社会勉強かなとも思える。Xには多様な考え、思い、行い等が溢れている。自分の人種、信条、性別、社会的身分又は門地とは大いに異なる人間の思想・言説はたとえちょっとした呟きであっても勉強になるとさえ思える。人文学生として、この過程は必要であったと思う。それのせいで、社会に蔓延る個人主義、自己愛、視野狭窄、思い込み、悪意、対立、固執、嫉妬に対して、憂鬱になろうと、憤怒しようと、感情的になろうと、虚無主義に走りかけようと、その過程は必要だった。他人の自分への理解のなさ、自分の他人への理解のなさ、それらに気づけなかった自分が存在していたし、これからもそれらを感じ続けることが確定している中で、それらを知れたのは大きかった。それらを考え続けたことも正しかった。自分の無知を曝け出し、怒られ、自分の黒歴史を新たに作り出したとて、正当化できる。

 それでも、もうさすがにXは辞めようと思う。Xを読むのはやめようと思う。
 なぜなら、文字が読めなくなったからである。文字というか、本が読めない。実はまだ小説は読める。ライトノベルや携帯小説の文体は読めないが、普通の一般的な小説は読める。でも、学術書が読めない。字が滑る。流れる。意味が入ってこない。文意がつかめない。
 本当は学術書が読みたい。でも読めない。

 短文のX構文に慣れてしまっていて、長い文章の文意が掴めなくなってしまっている。学術書の文体が読めない。
 本当は学術書が読みたいのに、読めないのは致命的だ。自分のしたいことはできるようになりたい。
 まんじゅうはこわくない、Xは怖い。Xはもうおなかいっぱい。お茶はこわくない。

 だから、「今度は学術書がこわい。」

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