徘徊者の逃亡記
はじめに
シャワーを浴びながらふと思った。私は何者なのだろうか、と。
思えばこの1年間、私は多くのものから逃げてきた。
人との関わりが消え、1人であることに執着した。
多くの趣味ができ、消え、そのたびに孤独の美しさに酔い浸った。
忙しさに追われる中で、生活から心が消え、それに伴うように部屋の床が埋もれていった。
心が死んだのではない。ただ、ずっと同じステージに立ちすぎていたのだ。
日常はいつしか風景へと霧散し、非日常は疲弊と倦怠感の影を持つようになった。
それでも、ふとしたときに問われるのです。
お前は何者であるのか、と。
それは何者でもない私が、何者かであるために行える、唯一の抵抗なのかもしれない。
そうしてひとたび駆られた衝動に身を任せて、私を言葉にしてみようと思うのです。
正解も不正解もない、なんてくだらないことは言わない。
今の私が抱える正解でも不正解でもある揺らぎを、一度言葉にしてみようと思うのです。
これは霧の世界を徘徊する私の逃亡記
「またそれと同時に目を背けたくもなる」-特権からの逃亡-
京都、宮城、岡山、愛知、東京。
大学2年生からのこの2年間で、私は計7校もの朝鮮学校を訪れた。
初めて訪れた京都ハッキョは市街地のはずれ、小山の頂上にあった。
突き刺すような太陽と、包み込むような湿気に汗をかきながらも、木々の影がくっきりとしており、美しさを感じたことを覚えている。
事前に抱いていたハッキョイメージとは異なり、とてもきれいな校舎に驚いた。きつい日照りの中でも、子どもたちはサッカーをしていた。
学校の校庭で焼肉をした岡山ハッキョ。
午後の陽気の中、校庭に敷かれたブルーシートの上には大量の七論が並べられ、オモニたちが作ったキムチを食べた。あれ以来キムチを食べられるようになった。マッコリもチャミスルも初めて飲んだ。長い長い1日だった。
初めて同年代の在日朝鮮人と出会った愛知ハッキョ。
何を見ればいいのか、何がわからないのか、それすらわからず、
上手く質問ができなかった。とても悔しかった。
それでも今も日常生活の中で関わってくれている。
私の人生において何か特別な意味を持つ出会いと時間だった。
朝大ではたくさんの同級生と出会った。
「なぜ在日朝鮮人について勉強するの?」という質問に頭を抱えた。
目の前のかれらを傷つけることに恐怖を感じ、幾重にも言葉を重ねた。
これまでに私が訪れたハッキョ出身の学生もいた。ハッキョでの経験が私とかれらとをつなげてくれた。
在日朝鮮学生美術展(学美)へは2度、その他にもウトロ平和祈念館や東京ハッキョ、愛知では在日ブラジル人が多く暮らす保見団地、出雲の在日ブラジル人支援事業にも訪れた。
この2年間で私は「日本人」という存在を疑い、同時に私の日本人性を見つめた。何も知らなかった私を、戦争は終わったと思い込んでいた私を、かれらを風景化しようとしていた私を、恥じた。今私ができることは、関わり続け、少しでも何かを発信することだ。そう思いながら日々を過ごしていた。
東京調査1日目の夜。
保護者会の会長さんから、ご自宅での夕食に誘っていただいた。
ビール、ハイボールといただき、旦那さんにプレゼントしてもらったという山﨑も飲ませていただいた。
その日は昼の時間に、小学生の前でお話をさせていただき、またいつものことながらお昼休みには一緒にサッカーをした。
東京という慣れない土地の空気も相まってか、お酒が回るのがはやかった。
それでも覚えている。
それはハルモニがそれだけの思いを乗せていたからかもしれないし、
私のぼんやりとしたセンサーにひっかかったからかもしれない。
はたまたお酒で感情の弦が緩んでいたからかもしれない。
「私はね、ただあなたが幸福であることを祈っているよ」
その言葉に体の内側、心臓から少し外れたところが握りつぶされた。
ハルモニの優しく温かい手で、ゆっくりと痛みを伴わないように優しくつぶされたそれは、赤く黒い血をとくとくと流していた。
「目を背けてはならない」
その言葉を信じ、その言葉を信奉し、その言葉に縋っていた私が、
突き飛ばされた瞬間だった。
マジョリティとして目を背けられない在日朝鮮人排除の社会から、
それでも目を背けたいと思ってしまった瞬間だった。
2年前、かれらを文字の世界に閉じ込めていた時のそれとは違う。
多くの人間と出会った。
もう私の手にはかれらのぬくもりがあり、皮膚には一緒にかいた汗がある。
耳にはかれらの歌声があるし、骨にはおんぶした重みがある。
脳にはかれらの名前だってある。
そんなかれらを、私の幸福をただただ祈ってくれるハルモニを、
それでも壊し続け、日常に葬り去ろうとするこの社会を、それをただ生きている私を、私は見たくないと思ってしまった。
目を背けてはならない。それでも目を背けたくなってしまう。
目を背けないという言葉は、こんなにも重くつらいものであった。
夜の新宿で吸った煙草を、体は拒絶し、されど脳が欲望していた。
霧に焦がれるように、私は煙を吐き続けた。
追手の掌の上で、それでも追手の視線から私を隠したかった。
「私はセフレか、ワンナイトした人」-性言説からの逃亡-
20歳になった日、人生ではじめてセックスをした。
カラオケをして、香水を買いに行き、お酒を飲んで、そのあとだった。
はじめては恋人とだった。
愛しくてたまらない女性だった。
「あぁ、なんだ。こんなものか」
それでもそう思ってしまった。
何度繰り返しても、感想は変わらなかった。
たかがセックスなんだと、そのとき思った。
思えば、セックスを「愛し合う」と表現するのをよく見かける。
しかし、なぜセックスは愛なるものと結びつくのだろう。
なぜそれに疑問を抱かないのだろうか。
恋人以外とセックスすることは悪い性だとする社会に、
私は飽き飽きする。(以前書いたこの記事)
私が、友達とセックスして何がいけないのかと問うと、
「セフレという概念とは違うね。面白い。」と言われる。
しかし私からすると、それさえどうでもよいのです。
セフレとはセックスを目的とする対象のことを指すかららしいのですが、
私の論点はそこではないのです。
私は概念で人を区切ろうとし続けることに苦しみを覚えるのです。
「友達とそこまでする?」
「友達(恋人/家族)なら何でも話せる」
「セックスは恋人か夫婦がするもの」
「恋人?-ただの友達だよ」
本当につまらない。
小説を読んでいると、セックスの描写は飽きるほど出てくる。
その多くはそこにとても強い熱を込めている、あるいは頑張ってその熱を抑えようとして書かれていると感じる。
それがとても嫌い。
セックスはとてもセクシーな行為であると思う。
普段見せない体を見せ合い、刺激と音と呼吸を交換するそれは、
妖艶なものでありうる。
それをくだらないと言うわけではない。
それは、日常の1つでしかないという意味でくだらない。
「あなたがそう思うのはいいけど、相手がそう思っていなかったらだめだ」
ではその逆、つまり、あなた方があなた方の当たり前で生きていて、私がそう思っていない現実は、なぜ甘んじて許されているのだろうか。
言説的には、私の考えが快楽主義的で、奔放で、無誠実で、薄情で、汚いからなのだろうか。
私たちはもっと、言説の中に生きていることを自覚しなければならないのではないだろうか。
実際の私はそうでもないということも言っているでしょうに。
「一度セックスをしてしまったから、私たちはもうセフレ?それともワンナイトした人?」
ベッドの上に落ちたその言葉を今でも覚えている。
あぁ、くだらない
私たちが生きるこの社会で、セックスは関係性を壊す道具になるらしい。
ベッドの上に散らばる服と言葉を眺めながら、私はどんな表情をしていたのだろうか。
これは性からではない。
社会に蔓延る性の言説から、
ひどく甘い香りのする毒の霧へと逃げる、私の逃避行。
きっと晴れることなく私を蝕むとわかりながらも、甘美な香りに酔っていくのでしょう。
おわりに
1人でいることに幸福を感じるようになったのはいつからだっただろう。
そんなことどうでもいい。
「あなたの言う上品な下ネタってなに?」
そう聞かれただけかもしれない。
パスタのソースが跳ねただけだったかもしれない。
何かはわからない。
けれど私は確かに、孤独の美しさに魅せられた。
とても美しい言葉を使う人を見つけてしまった。
たったそれだけ。
たったそれだけで世界がほんの少しだけ具体的に見えるようになった。
赤だと思っていたものの中に臙脂色の斑点を見つけてしまった。
霧を抜けた先に何があるのだろうかと飛び出した先には、別の霧の世界が広がっていた。
たったそれだけ。
何者かでありたいと望んだ私は、慈愛に満ちた手で握りつぶされ、甘い毒霧に侵され、それでも霧の世界を徘徊する。
明るくも暗く、乾きつつ湿るこの地を、一人で彷徨う。
それは何よりも贅沢で空虚で混沌とした、そういう逃避行なのだろう。
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